2013/05/20


ツイッターを離れた。 先日のことだ。 あの喧噪、あの狂騒に神経が持たない。 というか、他にも色々理由はあるが、そんなことはどうでも良い。 ドミートリィ・ゴールチェフの原稿(来月の『すばる』)をこの前書き終え、ほっとしてからのこと。 やはり、彼のようにブログをやろうと思ったのも理由の一つとして挙げられるかもしれない。 彼のことは原稿の中で書いたのでここでは書かない。 一つだけ書くとすれば、現代ロシア文学における卑語の流れ。 これは一つのテーマになる。 その切っ掛けは誰だったのか。 やはり、亡命作家だろうが、その名前を挙げるとすればアレシコフスキィとリモーノフ。 因縁があるのかどうか、リモーノフには間接的に関係している。 だが、これも今は言わない、というか、今後も言わない気がするが... これとは別のリモーノフの話。 先月から取り掛かり、少し時間がかかりそうな気配。 いつもなら電車の中で気兼ねなく訳をする僕も、 彼のものは人目を気にしないわけにはいかない。 卑語が時々出てくるだけじゃなく、テーマがきわどいからだ。 隣に人がいる時は本を読む。今日もそうだった。 マルガリータ・メークリナ(Маргарита Меклина)というペテルブルク出身の女性作家。 彼女はほぼ僕と同い年で、サンフランシスコのベイエリアにいるらしい。 多分、ユダヤ系で、移住して十五年以上なるそうだ。 高尚そうで、難しめの作家には、ナボコフだのボルヘスだのと、百年以上前の作家の名前を引き合いにして褒めることが多いが、 どれも的外れなことも多い。だが、彼女はもしかしてその的を射てるのかもしれないという気がする。 訳者としては挑戦的だからだ。 如何にも判断基準が軽薄そのものだが、間違ってはいないと思う。 きっと今の作業が終わったら、彼女に近づくだろうと思うし、それだけの引きを感じる。 野暮な商売だと思う、翻訳ってのは。 でも、魚釣りよりもきっと満足出来るはずだ。 金にはならないが...。

2012/03/23

ノーベルとエロ眼鏡

イチローにピンクのメガネは要らないのと同様に、文学に賞など要らない。 冗談のようだが、この主張は我々の想像を少しも凌駕しはしない。つまり、つまらないということだ。 色っぽい女そして男に色気を加える為に西部開拓期の売春宿のようなピンクの電灯照明などいらないし、これと同様に、ナボコフの、例えば「ロリータ」に賞など要らない。ロリータを書いた時のナボコフに必要だったのは僅かにいかがわしいオリンピアという出版社だけであったのだ。 そもそも、賞だとか毛羽毛羽しいものが人間ならびに人間の作ったものにへばりつくと、その時点でどこか安普請なハリボテに見えてしまう。貧乏症というか、そういった気高さのない代物になる。品だとか格だとかいって本を出すのも右に同じで、そういったことを売りにすること自体がすでに品がないということの証になってしまう。 安部公房がノーベル「省」に近かったというのは事実としては認められるとしても、あのアカデミーというのは一体どういう組織なのか。大体想像はつくが、敢えて「省」と書いたのは冗談ではなくて、これこそ冗談としか言えない組織なのではないかと思うからである。格付け組織である。誰が考えたのか? ノーベルには後ろめたさがある。爆弾を作っていたという単純で如何にも人間的な後ろめたさである。その肥大した良心の呵責がこのような文学賞だの平和賞だのを増やしていっている。良心を持たずして良心を売りにするという構図は市町村役場の役所の仕事における役人心理と同じである。何一つそこには本当の良心など要求されない。「お前ら俺らの税金で食ってんだろ」と言われる連中の仕事である。これは言い過ぎなのではない。事実である。それ以外の心理が働いている人ならば、役所からは即刻身を引いているはずである。ノーベル賞アカデミーは権威ある王室アカデミーからの依頼で仕事をしているはずである。問題は、誰が過去において賞を取る確率が高かったのかというインタヴューに答えてしまったことだ。「三島は安部よりも遠かった」とか何とか。役人がインサイダーとなって、もう何年も経っているからネタばらしをしても好いだろうといった軽い気持ちなのだろうが、その軽さは気持ち悪い。極端な話をするが、「自分が殺したんじゃないが、実は裏庭には屍体が埋まっていたのを村の皆で片付けて、20年前のお彼岸の時に墓地に葬ったんですよね。気味悪かった」みたいな裏話をしているようなものだ。 このリークのやり方は人の作品を貶すのとは違う精神構造から来るもので、それほど質の悪いものではない。 気味悪い、というくらいのものでしかないが、墓掘り人はもっと気高くあることを、それなら、願う。

2012/03/21

黒胆汁



二日かけて『メランコリア』を観た。今観終わったばかりである。
この映画の良さが一体どこにあるのかを考えてしまったのだが、映画を観たというよりも、ワーグナーを聴いたという感想が先に立つ。

人間のメランコリックな部分をこね上げて映画の形にするのは別にラースだけのことではないし、彼のような気質の作家はそこを基本にするのだろう。苦手な人も多いだろう。僕もその一人なのだが、それをどうこう言うつもりはない。

言いたいことは多分、ごく単純なことである。

あのような惑星が不可避的に近づいてくるという映像は夢の形象に近く、またそれゆえにごく身近なものですらあるということ。それはその夢を見る者の一種の破壊衝動ですらあるものを映像化したということ。これ自体は何てことはないもので、そんなものなら凡般のアクション映画が実現している。ということを言えば、この映画はアクション映画だとも言える。静かなアクション映画で、誰もアクションを起さない。起しているのは監督自身であるありきたりな結論である。いろんなレヴューを読んでみたが、金持ちがどうのこうの、(監督も含めた)鬱病がどうのこうのと、読んでいて、はっきり言うと、吐き気がし、これを書くことにしたほどだ。

すごく意地悪なことを言うと、破壊衝動はなくとも、われわれは日々自分の身体を維持する為に、すでに加工されたものだとは言え、食物を破壊し、それを摂取する。グルメ番組を見て”はぁふぅ”言って溜息ついているのは破壊行為をみて悶えているようなもので、何とも滑稽なのだが、それは我々が毎日していることと寸分も違わない。違うのは舌の感覚の問題で、グルメは早晩罪悪感を喚び起す破壊行為を如何に甘美なものにするかいうことに長けていることにしか関心がない。そう考えると、この手の映画も、あるいはそれを観る観客も、その破壊衝動の加工を吟味していることにもなろうか。もう一度言うが、飽くまでも意地悪で言っている。それ以上の意図はない。

このように、フロイト的に説明しようとすると、凡てはまるで夢のようなメタファーで終わってしまう。ユンクを使うと多分もっと酷いことになる。しかし、それでもラースの描く女性が(僕が観た限りでの話だが)ほとんど狂っているのはどうしてなのだろう。男性はほとんど描かれているとすら言えないし、女性ですら人間的な部分は影を潜めて、獸的ですらある。

ふと思ったことだが、変化はプロセスの一部なのだろうが、動物的なものに変化するプロセスは求められないということか。唐突だが、何故こんなことを思ったかというと、『グラン・トリノ』のイーストウッドですら変化を見せる。一見、人間らしくなっていく。最後は勿論、感情と理詰めの綯い交ぜになったところから生じる分かり易いものではあるのだが、それでも変化が見える。ある獸的なものに揺り動かされた結果として悲劇に気付くという変化だ。最終的で決定的変化が「死」であるという時、『メランコリア』と『グラン・トリノ』との間にある違いの何と大きいことか。

勿論、見当違いなことを言っているのは承知のことで、比較の対象にすべきではないのかもしれない。たまたま観たじきが同じだからこんなことを言っているのだが、しかし、この「死」という「後戻りのない決定的変化」をどう絵にするのかという問題は、いずれもが映画である限りは共通の課題としてもっているはずである。

キーファー・サザーランドの厩での屍体は、彼が人間としてすら描かれていないという点で、屍体ではなく、ということは他の誰一人としてあの映画では死んだものが映されていない。となると、何も変化を捉えていないことになるまいか。

2010/07/31

アカ文学チャ文学キ文学アカ文学チャ文学キ文学


文学と呼ばれるものについて少し書こうと思う。

私の回りには文学部を出たという友達はいない。
別に、大学を出ているからということがここでのテーマではない。
むしろ逆である。
少し遠回りになるが、こういう話からしていこう。
大学の文学部を出ていようが、ろくに文学の古典を読んだこともない輩は多いのだろうというのが僕の勝手な思い込みである。
専攻文学のみならず、「文学といえば...」何々の作品を読むのは当然のはずなのだが、読まないことになっているのだろうか。
そうではないと思いたいが、確証がないので何とも言えない。
しかし、無論、これが事実だとすれば、大学の教育プログラムに問題があるというのが正しい裁き方であろう。
読まないでいられるのは大学のプログラムがよほどいい加減か、査定が甘いかのどちらかに決まっているからなのだ。
恐らく、読まなくともよいプログラムになっていて、試験も口頭試問ではないからなのだろう。
直に聞かれたならば、読んでませんの返答では点がつかないはずだからだ。
しかし、今日はそんなことが話のネタでないことは冒頭で書いた。
今日の話は文学と呼ばれるものを考えるための一つのきっかけである。

世に「文学」という言葉が果たして必要なのかどうか、という原理的なお話である。
これは意外と皆考えてみようとしない。
特に、ナンタラ文学を専攻して、その歴史の陰に隠れてひっそりと「研究」と呼ばれるらしいことに精を出す人間には考えも及ばぬことである。研究者というのは無論、文豪などではないのだから、文学の将来を云々すると言っても、ほとんど外野席でのヤジに過ぎない。
これは悪口ではない。そうではなく、外野のヤジを過小評価する気は毛頭なく、むしろかつてのパリーグなどでは奇跡的なヤジも存在した。

人間がものを書くという営為について考えてみるにあたって、ブログの存在を忘れるわけにはいかないが、この話はもう少しあとにしてみよう。それよりも、人がものを書くことをわざわざ文学と名付ける必要はなく、またそうする理由もないということから考えたいのだ。
かつて、「作文」という言葉が定着する前までは一般に「綴り方」という言葉が一般に流通していた。文部省による名称変更という綱領範囲内のこととはいえ、この「綴り方」という言葉自体がかなり風化していることは否めない。しかし、特筆すべきは、「生活」という言葉と結びつくのは文学ではなく、この綴り方という言葉を置いて他になく、まさに生を書き留める、書き続けるという意味では文学などという範疇はあまりにも狭隘に過ぎるという点なのだ。
この教程のひとつとしての綴り方というのは身近なところでいえば「日記」である。幼い頃に日記を書かされた記憶は誰にでもあるが、この日記というものは流れでいえば「綴り方」の末裔に位置する。
日記というものには制約がない。文章読本風の気取りの有る無しなども念頭において書く必要などない。
文学性の有無をどうのこうのいうこと自体が最初から除外されている。かつて、ロシア・フォルマリズムの理論化の過程ではこの「文学性」とは何かということが大きな問題になったのだが、文学の枠に入るものが何かというその基準点に「文学性」というものが置かれようとした。結局、この問い自体は今から思えば疑似的な問いであったように僕には思えるのだが、それは何よりも書くということを一番にして人はものを書くわけであって、文学を最初において書くものなどはこの世にどれほどの数がいるかと言えば数えるほどしかおらず、抽象的であるかどうかを越えて、観念的、つまり、ここでは空想的とすら思えてくるからである。文学性を考えることよりも、ものを書くということ、つまり、ホモ・スクリーベンスの本質を本当はフォルマリズム理論家たちは抉り出すべきだったのだ、と思えてならないのだ。
ともかくも、人間はものを書く。その文学性の有る無しに関わらず、書くのである。その善し悪しを言い出すとそれは学的研究にはそぐわないものになる。では、原理としての書くということが本当に分かっているのかといえば、実は何も分かっていないのではないか。

上にも予告しておいたので、ブログの話をここでするとしよう。
かつて誰かが酒場で「なぜブログなんか書くんだ?」ととても大きな疑問符をつけて叫んでいたのを思い出す。
その方は編集者である。正直言って、「世間にはものを書くものが文学者よりも多くいるんだと言うことをこの人は分かっていないのかな」という呆れた気分が僕を襲ったのである。編集者はその上がってきた書かれたものを読み、そこに手を加えるか加えないかは知らぬが、とにかく、編集するほどのレベルになければ読むに値しないという職業的悪癖があるのだろう。度肝を抜かされるものを読まないと、あるいはそれに類するものが目の前にないと、価値がないのである。それも当然のことだ。なぜなら、彼らはそれを本にしたがっているからである。欲しいものは単なる書き物ではない。それは自費出版でやってくれ、というわけだ。あるいは、作家を育てるという言葉も存在する。恐ろしい言葉だ。本にするほどの価値もないものは世の中に出す意味がないというわけである。本=意味なのである。しかし、ここで大きな分かれ道、というか、編集者的誤解が待っている。編集者は世の中を相手にしていると思っている。しかし、これは誤解以上に、倨傲といものであって、意味などは編集者が検定したり決定するものではないのは分かり切ったお話で、逆に言ってみれば、編集者なんてものは誰にだってなれるのである。職業として、つまり、それで食っていけるかどうかはともかく、世間との値踏みをするだけのことしかしないというと言い過ぎだろうか。僕はそうは思わないのである。なぜなら、彼らが本という「意味」を世間に生み出すことは到底出来ないからである。ならば、そこで可能なのは世間との値踏みでしかない。どうでもいい内容のベストセラーですら意味を見出す。そこには値踏みがあるからだ。それを間違えると意味を失う。本はベストセラーにならないどころか、彼らからすれば、紙のクズなのである。クズ。意味のないもの。書き物ですらない、ゴミというわけだ。

ほほう。文学という尺度、これこそが本当に読まれるべき「作品」という尺度はどこにあるのか。その尺を外れているものは、ゴミなのか。そうかもしれない、彼らからすれば、しかし、世の中にはまだ何の意味も知らぬ書き物が五万と存在する。それを何の尺度で測れというのか。一番困るのがこの尺度なのである。先の「綴り方」というのはその尺度を「実感」とした。テーマを自由に選択して、実感を得られた自らの生活を書くという基準である。実感のないものを書いても意味がない。至ってプラグマティックな実践としての書くという営為を定義したのである。腹の底にすとんと落ちない概念などは無に等しい、ならば、実感を持って書くことの出来るものを書け、という極めて分かり易い訓示である。

僕自身、綴り方の実践をしているわけではないのだが、ここに見られる実感というのはブログの実践と実に近いと思うのである。「日記を他人に見せてどうする?」という問いの答えはここに隠されているのではないかと思うのである。文集というものがあるが、これなどを例にとって、「文集など人に見せてどうする?」という問いなどは浮かんで来ない。なぜなら、人に見せてなんぼというのが文集の存在意義だからである。巧く書く、というのは当然求められるべき目標である。それはあるにしても、しかし、編集者の言葉として「そんなもの誰に見せるんだ」という問い自体がそもそもナンセンスなのではなかろうか。文学作品、誰かに読まれてなんぼでしょう。書いて表に出した限りは、条件は同じなのである。誰かに読まれることを求める言葉がそこにはあるのだ。日記が誰にも読まれないなどと考える人がいるとすれば、その人は認識を新たにすべきなのだ。つまり、いずれその日記は誰かに読まれる可能性があるのだ。あなたが死んだあと、偶然それは日の目を見ることだってあるのである。それを意識して書くも善し、そうでなくても善し。そこに実感がこもっていれば善いのである。あるいは、人を楽しませようという意気込み、それすらも実感なのである。生活が書かれていなくても善い。空想でも善い。実感さえあれば。

実感、それは生きていることの、あるいはその受け身形、生かされていることの証しなのだから。

最後に。
デジタル・パブリッシングの問題について一言すれば、これによって書き物の質が下がるどうのこうのというお節介はする必要はない。そもそも、上の文脈からすれば、生の質は千差万別であって、それに一々口を挟むことの出来る聖人君子などいないのだから。大事なのはその質を善し悪し関係なく晒すことにこそ書くことの意義はまず第一に求められるのだから。文学部のみなさん、この辺のこと分かっていらっしゃいますか? まあ、分からんでも構わんことかもしれんがね、大文学やってるうちは。

2010/07/24

「腐敗の摂理」の語る前に


批評機能というものが世間に存在しうるかどうかは、常に考えなければならないことである。
これはどの業界でも同じである。
テレビであろうが、文学であろうが、音楽であろうが、美術であろうが。

変なたとえだが、簡単な話として、食客が日本からなくなった時代を考えてみよう。
格差どうのこうのという、はっきりいえばどうでもいいことを口にしなかった時代のことである。
つまり、そんなことはマスコミがいわなくても肌感覚で誰もが分かっていた時代のことである。
マスコミ=メディアというのはそもそも、感覚が鈍感になった時代の産物であるという前提に話をしている。
なので、「そうじゃない、そんなことはない」と考える人には通じないことではある。
しかし、人が客と接する時間を持たなくなったということと、それを自覚していないということは、この時代の最大の副産物である。
極端なことを言えば、殺人が増えただの、馬鹿が増えただの、といったことはほとんど「輝かしき文化」にとっては問題にすらならない現象であり、そんなものはどの時代でも同じく存在し、また存在するであろうことと考えれば、恐怖に震えることではない、という意味である。殺人や白痴が良いとか、好きだと言っているのではなく、もう一度言うが「輝かしき文化」が存在する限りにおいてはどうでもいい話だということである(納得いかないという人は、これ以上読んで頂かなくてもよい。貴方とオテテを繋ぐ気はないので)。

さて、食客である。
どこまで遡れるかは分からないが、昭和30年代が下限だろうか。
40年代半ば生まれの自分には分からないので調査する必要ありだが、仮にここを臨界点としてみよう。
ちょうどあの時期は経済成長の始まりである。核家族という言葉が生まれるが、これなどは大した内容のない似非社会学用語ですらあると言ってもよい。なぜなら、これから言おうとすることからすれば、「核」などというものが家族からは奪われていく段階に入っていくからだ。つまり、大家族の核が何かということが、さも誰にも分かっている前提であるかのようで、その実、何も前提にされていない上での用語だからだ。ならば、家族の核とは何か? 父親だろうか? それとも母親だろうか? 
はっきり言ってしまえば、そもそも家族の核など存在しないのである。

核というのはその周辺に何か存在するものがあるからこそ結果的に名づけられうるものでしかない。
細胞核でも構わない、剥き出しのものを核とは呼ばないのである。
核は常にそれを取り囲むものがあり、それに守られているものであるからこそ核と呼ばれるのであってみれば、
権威を意味する言葉でもなければ、守られなければならないものも意味しない。
逆に、剥き出しにならないことが前提の存在であるということなのだ。今の天皇制がその好例である。

核の代わりに別の言い方をしよう。
社会現象における中心というもの、あるいは周縁というものは、結果として存在を始めるものである。最初から、「はい、ここを中心にしましょう」などといった感じで生まれるものではない。それはすでに政治的中心である(天皇制がそうではないことは皆が知っていること。今のあれは結果である、したがって、政治的な中心ではなく、社会的なそれであるからこそ象徴=核なのである。これに意味がないといっているのではない、そこに政治的構築性としての中心ではないと言っているのである)。社会現象というものは建築とは違って、確たる設計図を持って生じることはない。ということは、すべては結果としてのステータスしか持たないのであり、だからこそ、差別意識というものも生まれるのである(「あの田舎者が!」というシティーボーイの言葉、あらゆるシンボリズム)。
これはある意味仕方のないことで、社会現象の結果に誰も口出しは出来ないのである。
それが厭なら、その社会からオサラバするしかないか、その社会を流浪する(そして、唾を吐いたり、反社会組織を作る)しかない。そのどちらかである。そして、ここに文化の差が生じる。カルチュラル・スタデーズをわざわざ勉強するまでもなく、文化が均一であったことなどないのだ。多文化主義とかなんとか言うまでもなく、文化は差異の結果/喧嘩なのだ。

やっと本題に戻るが、この差の象徴が「食客」である。
食客は食わしてくれる人間がいるので食客になる。
何も食わさない家に、客なんかになってノコノコ顔出すわけがない。そもそも、そんなところに客などいないのだ。
飯を食わしてもらえる場所というのはある意味、文化のぶつかる場所が生まれているということである。
客としてもてなすということは、人を人らしくもてなし、客として食に与るということは、客としてそれらしく振る舞うということである。相手が相手の腹を探るという下品なことはせず、お互いがお互いの身分をよく任じているのである。
これは、その善し悪しはともかくも、文化の象徴であると私は思うのである。

ちと前に、品格どうのこうのという本が売れた。
読んでないので何の評論も出来ないが(読んだとしても多分批評する気も起こらないだろうが)、格というのは単なる位置関係のことでしかなくて、そこにいるときの振る舞い方、位置特定の仕方を品というのである。だから、何も格好つけて「品格」何てことを言わなくてもよいのである。品格が位置関係だということならば、自分を相手にしてくれる相手がいなければ始まらないのであって、ただそれだけのことなのである。しかし、文化はこれを重んじるのである。そして、この位置関係が分からなくなっているのが現代なのである。

文化という言葉を闇雲に使ってきたような印象を与えているかもしれない。
ここで一言しておこう。文化とは、自分と違うものが存在するという意識であり、それ以上でも以下でもない。
一見すると、品とは基本的に相容れない概念である。しかし、高貴であろうがなかろうが、そんなことには無縁な概念である。
自己に文化があると思うのは、自分とは違う「夜郎自大」が他にはいるというほどのことであって、自分を認めない奴は下品だというだけのある意味「品のない」概念でもあるのだ。
こんなこと言うと暴言ととられるかもしれないが、「文化」などという言葉はそもそも差別意識を窒息させて閉じ込めた言葉に過ぎないのだ。

もう一度、食客の話に戻ろう。
家に食客がいたうちは、互いの差を感じていた。つまり、よい意味でも悪い意味でも文化を体感出来たのである。共有ではない、体感していたのである。共有しているからとか、共感しているからとかは、文化とは何の関係もないことである。文化という差別意識があるからこそ共有感覚が生じるのであり、これなどは食文化を見れば誰にだってすぐに分かることである。侍とかアニメとか茶道とか華道とかを日本文化と言っている連中はその辺のこと、つまり、身体感覚すらも失って脳内麻薬に冒されているのである。

さあ、ここで本当に、食客の話をしよう。
家が開かれているということが前提の話である。社会を文化的に生きようなどとはしない時代にしか生じない現象のことである。
相手の貧乏さ加減をよく知っている金持ちと自分の貧乏さを隠さないお人好しな貧乏人。しかし、そこに生きる人間のほとんどは貧乏人で、お互いそのことがよく分かっている民衆。その間では僻みや嫉みがない。最も清々しい、開けっぴろげな、翳んでいない人間関係である。つまり、オープンの一言である。このような文化は開かれている。多文化どうのこうのを言っているのでは決してない。差があるということを分かっていて、互い同士を差別しているからこそ素直に成り立ち、だからこそその間の流動が可能な関係である。文化的な格差もそこにはある。クラシックを知らない人間もいれば、落語を聞いたこともない人間もいる。互いが互いを馬鹿にする。お前そんなことも知らないのか。それで知らなかったことが今度は初めて聞いたことに変わり、次には知っていることに変わる。文化レベルの上下関係はないにしても、最初から何も知らない者からすればそれはプラスに他ならない。差が関係を調整し、そこで生じる交換が流れを生じさせ、それが人間を互いに(善くも悪くも)教化する。食客のモデルはこの教化である。さて、このようなモデルがなくなった時代、何が起こるのか、あるいは何かが起こりうるのか。

言葉は悪いが、簡単に言えば、糞詰まりである。清浄さはない。すべては詰まるのだ。
しかし、これが「個」なのではない。大間違いである。
この言葉について、日本人はどこかで大いに勘違いしたところがある。
「個」というのは差に基づいた概念であるはずである。これ以上分けることの出来ないという意味ではあるが、他との差を前提にした上で別の他へと接続する契機を持った存在者ということを、日本人はもしかしたら理解しきれていないのかもしれない。オタクというものはその代表例で、ほぼ同質の文化しかもたない連中同士を呼び合う言葉であり、しかも、その中でしか流通しない言語を持つ。これは交換のようでいて、同類項を足しているだけで、決定的な違い、つまり、計算不可能な接触などといったものは前提にしていない。互いに理解しようのないことなどは最初から話にもならないということになって、相手を選ぼうとする。さて、ここが大きな陥穽なのだ。

相手を選べるということは文化にとっては何のプラスにもならない。むしろそれはマイナスである。ここでいう意味での「文化」とはその前提が差であり、出会うものぶつかるものすべてがマイナスなのである。そして、それを互いにプラスにするというのが「文化」の極地であり、必要不可欠の条件なのである。

さて、無理矢理ここで終わらせる。
もし、人が文化論を語るときにこの条件を忘れたとすれば、それはその人が便秘で悩んでいるか、非文化人(ただのホモサピエンス)であるかのいずれかであろう。

「腐敗の摂理」はここから始まる。

2010/03/27

哲学とは官憲の賭けである


日常は”常に”非難に晒されている。というと、何のことやら訳が分からない。哲学的な物言いをしたいわけではないが、この日常が誰の日常であるかによって、非難の度合いも異なってくる。もしそれが哲学者の日常であったとしても、それが「日常」である限りにおいては衆生のそれと何ら違いがないとみなされてしまう。しかし、果たしてそうなのであろうか。日常をそのように定義してしまうと、哲学者の思う壷であると私は言いたいのだ。哲学者とて衣食住においては他の人間たちと同じであることには変わりないが、”変態”数学者(四六時中数学の難問にかかり切っている数学者をこう言うのは卑下ではなく、大いなる驚嘆をもってのこと)が日常にズッポリ浸っているとは思えないし、ことは程度の問題であるということである。哲学者とて日常批判をするその手掛かりとしているのは、存在の何がしを探求追求することをよしとする哲学的制度の枠内で許されているディシプリンがあると思い込んでいるからこそのことであって、その思い込みすらなくなってしまえば、哲学はその瞬間から消失してしまう。後に残るのは、人生の問題だけである。「なぜ無いのではなく在るのか」という問いにせよ、バナナを買うたびにそんなことを考えていれば、空腹と貧血で大勢がその場でへたばってしまう。その病名はライプニッツ症候群等々。

そもそも、哲学の顔というのは夜顔であり、なけなしの金を片手に居酒屋の喧噪に紛れて裏覚えの沈鬱な台詞を喚き散らすためか、はたまた、腰巾着を引き連れてバーの暗闇で女を口説くシミッタレ男の顔そっくりに、大抵が何か腹に据えているものがあるのである。日常がそんな具合だから、結局はそれは常に復讐の的とされてしまう。

「日常なんかなくなっちまえ! お前なんか嫌いだ! 非日常大好き! フリーク礼賛!」等々。

真理は誰が保証するのか。神と言ったらそれまでで、それは哲学者が一番使いたくないクリシェである。そもそも話が盛り上がるところこそ真理が顔を覗かせる場所で、ソクラテスの十八番である。彼からすれば、哲学者の独り言から真理が引き出せるというのはとても考えられない話だ。だから、哲学者には夜の顔が似合っている。居酒屋で反吐を吐くか吐かれるかしながら、真理が顔を覗かせる。

「もっと指を突っ込め、そうすれば楽になる」(定言命法)

この居酒屋哲学を近代では講壇哲学という。すると、それそれは滑稽なことになる。定時のお散歩から駆けつけた”官賭”老教授はチューハイ片手に何やらおもむろに、マスター(主)の頭の上に徳利(道徳)を載っけて楽しんでいる。

「ヤーヤー! ヤーヤー! ゼアグート、ゼアグート! ダスイストファンタスティッシュ!」

カウンターでは白手袋とコンパス・定規をあしらったエプロンを身につけた”官賭ファンクラブ”会員は皆、シコシコとメモ取りに余念なし。

「大学の哲学」というのは存在しない。大学で哲学が可能であるのは、それが哲学ではないからである。というよりも、それが自らを哲学と言い張っていられる場所がある限りは、自らが何ものでもないことを証明しているからであって、その証明は人畜無害の証しであるからである。そのような証明が嫌であれば、哲学は大学から出て行かなければならないが、だからといって哲学が在るという証明にはならない。それは制度としてあるとしても、その枠を必要とするような哲学なのであれば、僕はバーに行って、マスターとイナイイナイバーでもしてた方がましだ。

「Nein Nein Bar!」(今日もやってますよ、うちは)

2010/03/01

ドミートリィ・ガルコフスキー「終わりなき袋小路」66

66

No.52への注釈
ロシア人においてはというと、西と東が合い間見えたのだ。

 要するに、合い間見得ぬものが一つになった:古典時代、またそれ以前からさえ結合されることのなかった人類発達の二つの枝が一つになったのである。なにしろ、野蛮であった頃の、文字を知らぬギリシャ人でさえもが、古代ゲルマン人と同様、東方諸民族とは驚くほど異なっているのである。いわば、〈別種の猿から発生した〉ともいえようか。
 ここで、つまり、ロシア人は...それはダックスフンドやボルゾイ、ブルドッグや狆、プードルや牧羊犬を掛け合わせたようなものだ。そこで生まれてきたのは一種の怪物。前足はボルゾイ、後足はダックスフンド、一度食い付くとなかなか放さぬ狆、そして人間には金属的な咆哮と嗅覚をもった善良なプードル。
 一般的に、新種をつくることは非常に難しいとされている。突飛な掛け合わせをすれば、月並みなただの雑種が生まれるか、同じ血統でも弱い種を生むことになる。また頻繁には、血統を絶つような世代を生むだけのことになってしまう。歴史上、このような民族は数多い。そして唯一、掛け合わせの中ではひとりロシア人種だけは生き残ったのであり、しかもオリジナルで、独特の、合い間見得ぬはずのものを一つにする何かとして生き残ったのである。しかしそれは何か重々しく、不気味であり、織り目正しくない、「そんな事あり得ない」が生まれたのである。
 思うに、成功裏に終わったハイブリッド化の理由は次の点にある。一つめは、広大な平原領土、当初は何もなく荒れてはいたものの、殖民にとっては比較的恵まれ、しかもヨーロッパやアジアの居住地域からの侵入があった所だ。この空無と広大無辺はエスニック的素材の発芽と出現を促すことになった。原初のスラヴ住民は急速に出現し始めたが、他のエトノスに圧力もかけず、駆り立てることもしない代わりに、彼らにその住処とする森の中での成長と段階的なハイブリッド化、それに均一化を許していった。ポローヴェツ、キプチャク、フィン・ウゴルといった種族らとの最初の同種療法的交配は土着のアーリア-キリスト教的基盤のもとで高い適応能力を作り出し、解毒剤を与えた。結果、モンゴル系汗国はロシア系民族を呑み込むことも、変質させることも出来ず、その反対に、汗国自体がかなりの程度同化されたのであった。こういった同化現象の際に起こったことは、スラヴ派が誤解しているような劣化などではなくて(因みに、このような誤解はキーレェフスキー兄弟やアクサーコフ兄弟にアジア系の血筋が入っていることからみればお笑い種である。)、逆に、ロシア人種の複雑化と固定化だったのである。一方、ロシアにはそのはじまりから、スカンジナヴィアやヴィザンチン的要素、したがって、ポーランド、ドイツ的要素が入り込んでいた。尤も、この侵入もまた次第に段階的に起こったものである。交配の極端な長期性、段階性のうちにこそ、どうやら相対的な成功の秘密が隠されているようだ。それに、規模も加えておこう。古代スラヴの血の中への西欧及び東方的構成要素の多層的で、複雑で、そして一貫した流入、しかもその大規模流入こそは、極めて特異な大ロシア民族を形成することになったのである。少しでも脇にずれたり、少しでも速かったり遅かったりしていたならば、何も起こらなかったであろう。例えば、ウクライナ人は少しずれている―だから、もう違う(70)し、もはや「二級品」である。

ドミートリィ・ガルコフスキー「終わりなき袋小路」48

ドミートリィ・ガルコフスキー「終わりなき袋小路」48

No.44「ロシアとは西欧の実現なのである」への註釈

 物理的にロシアは、ぼんやりとした形の無いヨーロッパである。ベラルーシ人、ウクライナ人そしてロシア人とは、ヨーロッパ的多様性という三葉の花弁である。ヨーロッパのスペクトルとは何かと言えば、スウェーデンからイタリアまでのことだ。ロシアではそれと同じ距離の鬱々とした平原にやはり同じ数の住民が住んでいる。幽かに耳へ届く多様性の仄めかしがあるばかりだ。とは言え、ポモール(訳注:北氷洋・白海沿岸地域のロシア人)とテレーク・コサック(訳注:カフカース地方からカスピ海に注ぐテレーク川沿岸のコサック)も、スウェーデン人とイタリア人との比較となれば、どちらも似た者同士である。後者の場合、共通した歴史が彼らを結び合わせているにも関わらず(ヴァイキングが国家を創設したのはイタリア南部)、スウェーデンとイタリアの違いには驚くべきものがある。
 こういった単調さが観念の領域においてはロシアをヨーロッパの拡張器にする。あらゆる出来事は粗雑に、しかも巨大な規模において生じる。ロシアはヨーロッパ的イデアを拡張し、それを不条理にまで至らしめてしまう。ヨーロッパならば、バイロンといっても、それは蠅が飛んで去ったほどのこと。ロシアでは、作家となればそれこそ神様となってしまう。ロシアでは八世紀ものあいだ同じ一冊の本が読まれてきた。敬読してきたと言おう。校閲を重ね、細分してきたのだ。書いてある通りにものを考え、理解し、世界を分析し、世界と自らの内側に入り込んでいった。教条主義に信奉し、分かるようになるまで何度も繰り返し読んでは、世界の何たるかが分かるように自分に読んで聞かせてきたのだった。それ以外の本が鼻の下に押し付けられたことで、世界像は破壊し、文化の遺伝子は変異してしまったのである。ヨーロッパ的ルネサンス、ヨーロッパ的宗教改革、ヨーロッパ的啓蒙主義の複雑な時期がロシアで生じたのだ、否、突如飛び出してきたのだ、恐ろしいまでの呆気なさで 。

2010/02/09

あらゆる非は日本国政府真理省にあり

シー・シェパードの記事を読む。そして、彼らのサイトに飛んでみる。

一番先に目に入ったのが、左側真ん中あたりにあるコラム「サポーターズ」。

ダライ・ラマは好きでも嫌いでもない。坊主だからだ。猊下と呼ばれる彼だが、私にはただの坊主でしかない。坊主という言葉が嫌ならば、単に仏教徒と言ってもいいが、聖職者は皆私にとっては坊主だから仕方がない。いずれにせよ、ダライ・ラマの登場は意外でもなんでもなかった。ヨーコ・小野でもピッタリきそうだが、自由を半ば奪われている亡命者を「サポーター」にしたところなどは美学的に正しい。

エコロジーと仏教はすぐに結びつく。しかし、その理念的繋ぎ合わせをやり過ぎるとジャイナ教みたいに蚊も殺さないお人好しになってしまう。だから、どこかで線引きと言うか、どうも仕方のない我ら「生態系長者」の首を守るサポーターが必要になる。その教えが仏教なのだが、結局ここには宿命的な破綻が見える。宗教団体であろうが保護団体であろうが、生を相手にし始めると、どこかで底が見えてしまう。宗教は生の底なしであることを標榜して憚らないのだから、環境団体が彼らに縋り付くのは常で、しかもそれは不条理ですらある。理由は単純で、生の底など彼らは微塵たりとも信じていないからだ。これこそ、彼らが宗教に救いを求める時に見えてくる論理的破綻だ。

ジョン・レノンが偉大だと仮にも思えるのは、「戦争は終わった」というのが彼の戦争の合い言葉であったことで、これは彼が理想を掲げた瞬間に自らの論理的破綻を倫理的乗り越えようとしたことを証しだてることにこそ彼の闘いがあったということで、こういった闘いにはそもそも終わりというものが前提されていない。ジョークによって人を困惑させるだけでなく、惑溺させることほど、高等な技はない。

仏教の話に戻るが、人類という娑羅双樹の花は結局はいつか色褪せるのが落ちである、というルサンチマンがこの宗教にあるか無しかはともかく、坊主の話は大事なことを言うのをなるべく避けようとする。方便というやつだ。話しても分からない相手に色々御託を並べてもためにならないから、それなら言わないでおくという相手への配慮だ。そもそも、仏教は行あってのもので、それもなしにいきなり梯子の天辺には上がらせてもらえない。だから、それを真に取ってしまう輩が多い。

シー・シェパードのサイトは言うなれば、修行なしに何かお墨付きでも貰おうという類いのものか、さもなければ、捕鯨妨害を自らの修行とみなしているかのどちらかなのだろう。しかし、それが修行とは見えないのはなぜだろうか。

WE WON'T STOP UNTIL WHALING ENDS.

捕鯨停止こそが終局の目的ででもあるかのようなスローガンだが、これは修行ではなく、興行に近い。

彼らのメンタリィは基本的に「傭兵」のそれに似ている。ただ、そこには捻れがある。傭兵はそもそも職にあぶれたものがならざるを得ない有り難くない職であって、理念からはもっともほど遠いと思われがちな連中である。しかし、軍属として雇われるには自分で武器から何から調達せねばならず、官製のお仕着せなどない。勝手になりたい者がなる職業なのだ。この理念のなさが彼らに理念を渇望させる、と考えるならば、シー・シェパードが海洋動物の尊さを求めてやまないのはあまりにも当然すぎる。海洋動物は今や最大のお得意さんであり、ここでもし日本が捕鯨を止めたしたら、お得意さんはいなくなるだけの話で、別の得意先を見つけ、またさらに崇高な散財を続けることになるだろう。だから、本当のスローガンはこうなのだ。

WE WON'T STOP UNTIL THE WORLD ENDS.

2010/01/10

AD INFINITUM


セレブという言葉が使われるようになって何年経つのであろうか。
私はこう言う俗な言葉の氾濫が好きでたまらない、なぜなら、その俗っぽさを嗤うのが私の唯一の趣味だからである。
このように「人間性」が壊れている私にとってはそれゆえ、セレブと呼ばれるような人間などこの世にはいない。
あるいは、全く信じないといった方が正確であろうか。

セレブというのは、ミーちゃんハーちゃんにとっての聖人であり、一方聖人は、篤信家にとってのセレブである。
セレブ=聖人のどちらにもなろうとすると失敗するのが落ちであり、オウム事件の時点で麻原は僕の「セレブ」ではなくなった。
財界人に確たるセレブ風を吹かせている中村天風のようなヨガ行者まがいも、それなりに彼らなりの聖人と呼べなくもないが、僕にはどうも胡散臭いセレブに過ぎない(否、胡散臭いからこそセレブなのかもしれないが、このさいどちらでも構いやしない)。

しかし、この胡散臭さはいつ滲み出始めるものなのか。
「カラマーゾフ兄弟」を思い出す。聖人としての誉れ高きゾシマの遺体は腐ることなくそのまま聖遺として残されるはずであったが、それも自然の力には勝てず、周りの人間の意思に反して腐って行くエピソードがあったはずだ。こういう「ゾシマ」の話は民衆のあいだではいつまでも絶えることがないようだが、心の中にこういった聖人がいれば、心はささくれ立つこともないというのであろうか。しかし、それはあり得ない。民の自己暗示力がどれほど持続するかが、その崇拝対象である人間の「セレブ聖人」たる所以を保証してくれるだけだということは今更言うまでもない。しからば、その「セレブ聖人」という虚像を作り上げている世間も世間だ。そして、この茶番の主役はメディアである。

メディアはあいだに割り込み、あいだを作る、その善し悪しはさておき...と言いたいところだが、メディアの前提が「善」というイデアであるとすれば(これは甚だ疑問が残る)、あいだは本来満たされなければならないはずだ。しかし、この溝が埋まることがない。この世に「あいだ」が出来ると言うのは理の当然だとしても、そのあいだをあいだとして残し続けるのがその証しであるかの如くメディアは存在を続ける。そしてそれはad infinitumに膨張することを余儀なくされる。

仮に、セレブ的あの世と腐敗するこの世とのあいだが充たされているという錯覚を生み出す作為がメディアのイデアであるとすれば、誰のお世話にならずとも生きていける世などないことは言うまでもなく、またこの世は今「ほぼすべて」メディアのイデアに汚染されていると言ってしまってもよい。本来、誰の世話にもならず、誰に迷惑もかけずにいることが「善きこと」であり、つまり、プラトン的な意味での自己充足こそが「善」の本来の意味であることを忘れなければ、メディアの興隆はなかったはずだからだ。「壁」だとか「品格」だとかいった言葉に踊らされることもなかったはずだからだ。

こう言いながら、私もこのようにあいだに割り込んでいる。媒体に乗らなければこのようなことは起こりえないことで、しかし、この媒体もなければ反論も差し出しようがない。ただ問題は、そこに暗示を忍ばせるかどうかにある。あるいは、誘導と言ってもいい。マーケティングは暗示と誘導というこの二つの武器がなければ箸にも棒にもかからない無用の長物であるしかなく、これを武器に出来るからこそパブリックリレーションズが成り立つというわけだが、それならばメディアなどはただの商品購買力を喚起するための先兵に過ぎないことになろう。ニュースリリースにぶら下がる広告をすべて振り落としたところで、恐らくこの事実は動かない。

ならば、私はこの自己広告を振り落とした瞬間に無になれるのか。これも甚だ疑問である。となると、純粋に書くということは、無になるということからは甚だ隔たった行為だということになりそうだ。

私と世間との「あいだ」も、やはりad infinitumに膨張する。

2009/12/19

彷徨、奉公、放校、咆哮

さて、今日はそろそろ始まった現行大学制度の本質的解体について論じたいと思う。

12月19日付の「九州大学による生活支援」に関する記事にちなんで。

日本における現行の大学の目をよく見ると、それがロンパリであるのが分かる。
右目は「家庭」に、左目は「社会」に向いている(九州大学の話は最後にしよう)。

今の大学がその上にかいている胡座は、そもそも生活費を自費(あるいは親の慈悲)によって賄え、なおかつ授業料の工面が可能な「家庭」の上に横たわっている。重要な点は最後に記した「家庭」という概念である。優秀な学生を集めるという名目で大学は今、生き残りをかけて様々な戦術を凝らしているが、そこに共通するのは一つの崇高な勘違いである。それは、大学教育に捻出される資金源のほとんどが、今挙げた「家庭」というものに依存している点だ。そもそも、義務教育の枠に入っていない以上、大学教育を提供する側の基本スタンスは「家庭」を度外視した、全方向的なものであってしかるべきであるが、必ずしもそういった戦略的な枠組みを持っているとは言えない。戦略のあるところにはあらゆる方向に目が向いていなければならない。だから、今の大学改革は全方向的だと私は言わないのだ。

ヨーロッパのボローニャ・プロセスを例に取ろう。

これが成功しているか失敗するのかはまだ現段階では何とも言えない(また、学士3年、修士5年、博士8年という3-5-8年制という時間枠についてはここではとりあえず問題にしない)が、これは簡単な話が、欧州連合の通貨ユーロの大学教育ヴァージョンだと言ってよい。ヨーロッパ内の大学教育の現場において、従来の単位に相当するモジュールの互換性を高め(その教育レベルの高低はどのみち無視してしまう形で)、この資格証明書さえあればヨーロッパを自由に行き来出来るという通行証である。本来、大学修了証明書をdiplomaと呼ぶが、この呼び名が本来はギリシャ語の交通許可証から来ていることを考えれば、この発想自体は至って自然である。

ボローニャ・プロセスは失敗する運命にあるという人もいれば、その逆を吹聴する連中もいる。どちみち、その背景の部分に動いているものが何であるのかを考える限り、成功失敗などはどうでもいい話である。つまり、人間の流動性を高めることによるヨーロッパの死活こそがここでは問題なのである。欧州連合とは別の次元で行なわれていたことも、逆にこのヨーロッパ内部における必然的なダイナミズムを感じることになろう。ここには当然のこととして奨学金制度・学生支援制度も連動しており、上に挙げた日本の大学のように、高台を歩かせる馬に目隠しをするような政策ではない。大学に入ることが「箔がつく」といったような次元でもない。むしろ、大学はもはや知的自由を謳歌出来るような場所ではなく、ほぼ確実に経済的虚栄の市になろうとしているのであり、その成功のためにはいくらも金を惜しまないのである。

日本の話。今の大学の修了証書などは、そのほとんどが「徒花」である。バスの整理券にすらならない。

今後十年先まで所得配分が現在のままであり続けるならば、恐らく50%近くの大学(特に私立大学)は文字通り徒花と散るしかなく、国公立とてその例外ではない。わずか20年前と比べても、授業料は二倍近く膨れ上がっているのに、所得上昇率などは無論比較にならない。本来スルスルと流れて行くはずのお金のパイプは今や詰まっているどころか、疲労の末に破裂し、どこぞの別荘の庭の金のなる樹の傍で泡を立てて吹き上がっている。

無償化の議論。

これは、国連人権規約の中にある中・高等教育の段階的無償化を批准していない国、日本のお話である。この方針が現状をよく反映しているとは言え、その批准を促進するしないについては、また別問題であろう。上に述べたように、日本のやり方は高度成長期マネー(中高所得者)を当てにした社会的戦略性の低いものであったわけだから、方針をこの先見直すことはあるにしても、それは国際的な建前の話であって、実効性については別に無視してしまっても構わない、というのが恐らくリアルな政治家の知恵である。しかし、無償化もせず、奨学金制度も充実させないままにこの先突き進もうとするならば、墓穴を掘ることになろう。大学は経営不能となり、半ば倒産。家庭は支払い不能となり、進学見送り。日本社会がそもそもユダヤ人のようなコミュニティ精神を持っているわけでもないので、どれほど優秀な人材であっても、簡単には進学することは難しい。そこで、大学がこれを助ける能力がどれほどあるかがここで問題となるわけだが、ここが大学無償化問題の分かれ道である。さあ、最初の九州大学の記事に戻ろう。

経費削減等々で一億円が捻出出来たという。
1000人に10万円の支給、倍率は5倍ほどだ。
本来、大学は勉強しない連中に媚を売る必要はないのである。リアルな話をすれば、金を払おうが払うまいが、しっかり勉強してさえいれば大学生として認めるだけのことなのだ。研究者でもないし、教育者でもない。しかし、そのどちらにもなり得る人材だからこそ、大学にとっては重要なはずである。それなのに、何もせずに金を払ってくれるからという最低な動機のもと大学を運営するなどということは倫理的に考えてもチャンチャラ可笑しいのである。この5倍の倍率で賞金を獲得したものはさらに茨の道が待っている。そう、それでいいのである。大学生はトレーニングセンターにやってきたのであって、アロハシャツにバスローブの健康ランドではない。

而して、大学の将来的戦略の根幹は至って単純なのだ。そしてこれが大学の本質的解体の序章である。

「お金払うから、ウチに来て」

今や、大学は坊さんの居場所ではない。そういったものは私塾か禅堂かに任せればよい。勝手に人は集まるし、金もかからない。こう言いさえすれば、優秀な連中はいくらでも呼べる。少しでもサボったら伝家の宝刀「放校処分」を振りかざせばよいのだ。この先、さらにどうやってお金を捻出したらいいのですか?と聞いてくる輩がいれば、こう答えればいい。

「あんた世間の頭脳でしょうが。それくらい自分で考えなはれ」

2009/12/11

聖毒書習慣


読書家にとっての至高とはなにか

明らかに、知の欲求を満たすことではない。知によって崇高・至高の瞬間は得られない(獲得された知はそれ以外の無限に広がる無知をわれわれの目の前に曝すから)。多分、最初の問いそのものが愚問であることに気付きながらもさらに考えをめぐらしてみる。
あるいは、むしろこの広大無辺の無知の領域こそが未だ見ない至高の影であるとでも考えてしまうのか。読書家とは何と愚かなことか。
しかし、読書を止められない者こそは、この至高の影を追い求めるのだろう。私もその一人なのだろうが、しかし、音楽に手を出せば手っ取り早く崇高なる瞬間を得られるかと言えばそうとも言えない。知も無知もない領域に行きたければ、初めから読書などする必要はないのだが、無知のままでいることの不安が読書家にはどうもあるのだろう、すぐには宗教に手を出すことはしない。タバコは吸っても、コカインにはすぐに手を出さないのと似ている。要は、読書家は無我などというものとは無縁なのだ。これは、自らの思考にシドロモドロであることに何とも不可解な(不)快感を見出しているからかもしれない。不快であることが無我でいないことを助けてくれる、あるいは少なくとも、自分を無くすことが最大の不快であるならば、寸止めの不快感こそが快感であると自らを偽っているのだろうか。いずれにしても、最初の問いは愚問である。なぜこんなことから書き始めてしまったのか...

...こんなことを書き始めた理由はこうである。どれほど本を読んでも、私には感動という瞬間が生じず、その理由を知りたくなったからだ。そして、その理由が分かったところで結局は何も変わらないにもかかわらず、それでも理由さえ分かれば読書の仕方を変える方法があるのではないかと考えたからだ。

そもそも、私にとっての「読む」とは、「書くための読む」である。しかし、書いていない。というか、書けない。
ライターズ・ブロックというのがあるが、別に物書きでもない自分をライターと呼んでいるわけではなくて、ここでこの言葉を出したのは書こうとしている人間が書けない状態を指すために過ぎない。
唐突な話だが、真言でも聖なるヘブライ語でもいいが、聖なる言葉への信仰は次のようなことを教えてくれる。つまり、この世は言葉で出来ているということ、ひいてはわれわれ人間も言葉であるという考えだ。とりわけヘブライの思想を例にとれば、その聖なる言葉を分有しているのがわれわれの身体であるという。分有しているといってもそれは車のガソリンのようなもので、使い切ったらハイそれまでよ、という代物。つまり、人間絵巻一巻の終わりというやつである。これは物書きの世界に置き換えると非常に分かりやすいし、ある程度納得出来る。あるいは、物書きでなくとも、才能全般という言葉に置き換えてみてもよい。しかし、このヘブライの神霊言語思想における「分有」というのが「予算割当」のようなものである以上は、「補充」だとか「補正予算」なんて考えは恐らく出て来ない。

「今年度分の科研費は全部使い切って下さい、来年への繰り越しはありませんから」まあ、こんな調子だ。

今生も恐らくそうなっている。知識の集積は後生を益するとしても、来生への繰り越しは許されないのだ。そして、マッドな奴らはもっと違う手を考える。人間の死後再生技術が完成することを前提とした脳の保存を怪しげな会社に委託するか、脳をデータ化する。そして、来生への繰り越しを試みる。ここでは熱力学の第一法則と第二法則がかち合わないことが前提なのだが...。

そう考えてみると、読書は至高性を忌避する行為であることになるのだろうか。必ずしもそうではない。むしろ、書くことの方が第二法則への虚しき抵抗なのであって、読書はその抵抗を見守る行為であると同時に、一つの閉鎖系として生じる書物を再び開放しようとする裏切りにも見える。そうなれば、至高性を目指していることになるのだろうか。多分、その答えはは「イエス」でもあり「ノー」でもあるだろう。

明日の今日逝く



今日行く、行かない、今日行く、行かない...

大学の教育と小中高学校の教育はde facto異なるのは誰も認めるところである。
大学生にわざわざ世間での身だしなみ、これはイカンあれはイカンなどというのはナンセンスだと思う御同輩たちも多いことだろう。
なにしろ、大学を出ることが社会の身だしなみなのだからのであれば大学では何をしていてもとりあえずお咎めなしという不文律、それさえクリアすれば社会は社会人一年生として受け入れてくれるというのだから。社会がまたキョウイクしてくれるというわけである。何というアスのないキョウイク社会...

ところで、マスプロダクションというのは恐ろしい。アイドル発掘と同じく、どこにでもいるような田舎っぺ娘が厚化粧にハイヒールを身にまとえばもう一端のアイドルだというのと同じく、大学証書を手にすれば一端の社会人、その上、社歌なんぞ歌った日にや、もう誰も文句など言えない。どこからどう見てもシャカイ人である。

私は世俗にどっぷりの人間であるが、かといって、シャカイ人のことは自分にとってはガイ人程度にしか思っていない。
親によく言われたのが、このシャカイ人という言葉だ。だいたい、この言葉の後に来るのは「らしく」という正体の分からぬ言葉だ。この日本語の品詞も未だに分からない。「みたいな」なのか「ごとく」なのか、それとも「として」なのか。多分、最後の言葉が一番ピッタリ来るのだが、どのみち曖昧なことには変わりない。このシャカイ人という言葉が、一番今でも癇に障る。

親のキョウイクというのは怖い。ハンかチョウかの博打に近い。
人の家のことは言わないが、ほぼ誰もが実体験としてもつことだ。
もし本心から自分の親は素晴らしいと言える奴がいたら、そんな奴100パーセント信用してはならない。

大学の話に戻そう。
68、9年以降の世代は闘争の遺産として大学内部に少なくともリベラルな雰囲気を残したということは認めても良い。
その行き着いた場所が「授業評価アンケート」である。
これそのものには異論はない。ただ、正直、何を求めて行われているのかが正直分からない。
大学を学生コンシューマー市場に曝すのであれば、そう銘打ってアンケートを行ってもらいたい。
こちらもそれなりの覚悟で望めようもの。しかし、大学の自治の元、自らの理念に基づいて行われているわけでもない。
結局のところ、文科省の求めに応じた官僚的統計調査の一部に過ぎない。

私の中では二つの意見が真っ二つに分かれている。大学の自治。大学の解放。

どちらも本来は60年代的なスローガンである。自治とは、極めて西欧哲学的な立場であるところの大学像である。
この哲学的大学像のために哲学科が閉鎖されるという時代が例えばロシアでは一時期繰り返された。
では解放とは。大学の前進である流浪学生と流浪教授の開かれた共同体。これも分かる。理想だ。

本来、現代的な意味でのサーヴィスというものを行う者は、医者であろうが学者であろうが、定まった場所を有してはいなかった。
それは一種の興行に近い存在で、必要とされる場所に赴いていくのを常としていた。
つまり、必要とされなければ学びの場所そのものが存在しないのであり、誰一人それによって苦しむことはなかった。
教える相手がいなければ、いくら知識を有していようともただの人であって、誰もそれを恨んだりはしない。
知識は本来、そういうものに過ぎないなのであり、そうあるべきなのだ。学びたくなければ学ばなくても良い。
これこそが解放された学問の状態であり、それ以上でも以下でもない。正直、そこには崇高さなどこれっぽっちもない。
至極単純な話なのである。

学生コンシューマーが跋扈するこの時代、何もわざわざ大学に来てもらわなくても良いのでは、否、来ないでもらいたいという連中は、申し訳ないが、非常に多い。開き直れば、大学は何もそんなに大層な場所ではない。大学の自治にしても、それは大学にいることに何らかの利権・利害が存在する人間が口にすることで、何も崇高な理念の上に立った物言いなんかではない。ここに哲学はないといってよい。西欧の大学に置ける哲学の位置づけについては充分理解しているし、その事実を否定するわけではない。しかし、哲学も一つの利害を元に成り立ちうる時代であるからこそ、私は言いたいのだ、目的もない者が大学など来る必要など毫もないのだと。

レイプ事件が起こり、その被害者をなじるような時代である。これを大学(生)の危機と言わずして何と言おう。
人格教育など全くこの世の教育制度からは消滅している。夜回り先生というか、夜回りソクラテスのみが、若者的生の危殆を案じるしかない世の中ー世界は夜なのだ。

2009/12/07

「本の食べ方」


昔、何かのテレビ番組の記憶だ。
「読むまで死ねるか」で有名な”ハードボイルド”ボードビリアン内藤陣(まだ健在なのだろうか...)が自ら経営するバーのカウンターに凭れながら僕をこんな風に挑発したことがあった。

「学生なら、飯一食分くらい抜いて本を買え!」

無論その時、彼の話だし、「本」と言えばハードボイルドのことなのだろうとは思ったのだが、その時以来、僕の頭の中に「本=飯一食分」という等式が出来てしまっているのは彼の責任というか何というか、否、やはり彼の責任である。

あれ以来、僕は一食分と言わず、数日先の食事代のことも考えながら、どれだけ粗食で我慢出来るだろうか、と考えながら本を買うようになってしまった。おかげで、家には食べ残しの本、そればかりか、箸もつけていない本が五万と転がっている。ちょっとした古本屋食堂である。

本は腐らないとは言え、それでも限度というものがある。一番癖が悪いのは、レシピとなる本を読み始めると、その関連素材を味見しないと気がおさまらなくなって、仕舞いには、関連素材の本まで集め始めるのである。思考肥満とはこのことで、それが原因でどんどん身動きがとれなくなり、自分で料理が出来なくなってしまっているのだ。

だからこの先、粗食用レシピを熟考する必要がある。空想のレシピに終わらぬ我が家の実践(実戦)家庭料理。
その名も、

「思考肥満解消レシピ」

当たり前の話だが、全てを知り尽くした者にとって物を書くなどということにほとんど意味はなく、その逆に、全てを知り尽くしたいと儚くも願う者こそが物を書く運命にある。ここは重要な点で、「分かったぞ!」という傲慢な瞬間が誰にでもあって、それが思考の足を引っ張る。分かったと思った瞬間、その先からすでに分からないことが次々と溢れ出しているにもかかわらず、驕慢な思い込みによってそこのところに蓋をしてしまうのである。これが思考肥満の原因である。しかし、この「分かったぞ!」がやがて消化(昇華)されなければならない、あるいは、ただそのためだけにある思考の食材なのであってみれば、それを放置しておくことは中毒症状を引き起こすしかない...。

ここまで書いてきて、「編集」という言葉が浮かぶ。尤も、粗食料理には直接関係しない風に見えるが、編集と言う言葉が生み出しかねない誤解は拭い取っておくべきだろう。

編集は、別に旨いとこどりのことではない。分散している旧来のデータを用いて新たなフォーマットに仕立て上げるのが恐らく編集の妙なのである。そこからまた新たなセリーが次々と生まれ、これまで結びつくことのなかったものが合わさって次の神経回路を作る。これなどは創作料理的なところがある。無論、そこには洗練といったことも生じてくるだろうし、新たなフォーマットにとって無駄なものは削がれる。ゴテゴテしていたり、ブヨブヨしているものはどれも洗練度が低いということになって、編集対象になるであろう。ここまでは編集術に関する僕なりの勝手な想像でしかないので、もう少し吟味が必要だ。

そもそも、この編集という方法が僕にはどうも苦手(不得手)で、これはセイゴウ氏に倣うしかないのだろうが、編集ではどうも本を食べた感じにはならないような気がしてならないからだ。しかし、粗食の妙技はやはり編集術にあるのだろうか。ただ、僕には『編集』よりも『変種』の方がお気に入りなので、暫しこれは熟考すべき課題として置いておくことにしよう。

2009/08/04

So much for SAMURAI JAPAN's "le sentiment"!


ヤフーのニュースサイトを見ることが多い。
別に気に入っているわけでもなく、ただ癖になっているだけの話。その癖もよい癖とは看做していない。むしろ、直すべき悪癖であろうと思う。

一番気に入らないのがコメントである。コメントを読むとニュースの内容よりも、ニュースの背景となっている社会的気運が如実に現れていることに気づく。コメントを書く人間は、通常人と話すことの少ない人間である。人と話が出来るのであれば、わざわざ不特定の人間の前に出て私見を述べるまでもないことで、これは私の偏見であるが、欲求が十分には満たされていない。ブログも同じであるので、私も欲求をこのような形で満たしていることになる。かくして、吉原に行くように、あるいは、ホストに会いにいくように、気侭にブログを綴るのである。

コメントは文化の縮図であり、社会の周辺に位置する。中心にいる者はコメントを求められる立場であり、自ら発信する必要がなければコメントは滅多にしない。作家がそのよい例だ。べらべら喋るばかりのコメント上手な作家にろくな者は居ない。何も書かない人間と同じで、それこそ周辺的な市井の存在に過ぎない。それが嫌ならば、作家は書くしかないのだ。


ヤフーコメントに戻る。

このコメント欄の特徴は一言で言えば、一般常識を装ったコメントが多いことにある。覚醒剤逮捕者の妻にも道義的責任がある云々...などというコメントを見ていると、日本社会の抑圧的性格がはっきり分かる。以前にも書いたことがあるが、やはり大衆の時代は目立つものを埋没させることに熱を上げる下衆な時代なのである。火事場へ泥棒に入るようなもので、盗み出せるものは何でも盗み出す。栄光を背負っている者、人気のある者、金のある者、ありとあらゆる社会的ステータスを剥ぎ取ることで溜飲が下がるというわけだ。あっぱれである。そんな社会に未だに谺するのが、その先祖の大多数が農民であるはずの下衆根性丸出しの「侍ジャパン」である。侍ルサンチマンとでも言おう。これは大げさな言い分ではない。実際の日本人は未だに欧米へのコンプレックスに絡み取られて、ヨーロッパ語にしがみつき、NOVA通いに大枚叩いて、鼻を空かされるのである。侍は三島が流行らした嫌いがあるが、あれを引き摺っていけるのは今やスポーツの世界しかない。あれこそパセティックとしか言い様がない。莫大な報酬をもらう選手をよそに、大衆は未だに「侍」と嘯いているのである。こんな話、ほとんどノーコメントで済ましたところだが、そういうわけにもいかないのだ。


侍の所以を考えてみよう。

武の術は、闘いの場において自らの死を一歩でも遅らせるために相手を利用することを身につける術であると考えてみよう。だとすれば、闘う相手でもない人間を遠い岸辺に置き去りにして、しかもその人間が無縁の者であり、なおかつ、苦しみ喘いでいるのを横目に、誹謗中傷・罵詈雑言を並べ立て、相手が立てなくなるほどに痛罵するということと、すぐ上に述べた武術にいかなる共通点があると言えようか。評論家気取りのアホ丸出し下衆コメンテーターがヤフーのニュースコメントに書き込んでいるのは単なる低能なファッショに他ならず、またそれを許容し、利用されているヤフーも低能の誹りを受けても甘んずる外ない。

2009/07/14

All you need is Law...Law is all you need.


今日は最も私の中でホットなネタである。
まあ、ホットだからといって心が豊かになるのでもなけりゃ、明日への活力を得たわけでも無論ない。

70歳男性の万引き話である。
この微罪に対して求刑3年、そして判決は懲役2年。
常習性、つまり、手癖の悪さに対するこのような裁定で、彼が盗もうとしたのは98円の消しゴムであった。

こういった高齢者の万引き、しかも常習的であることの背景には様々な理由があろう。ただ、生活保護を受けていることに託つけて、微罪に対する情状酌量をあわよくば期待出来るのではないかという彼の法意識の低さにも、このようにかなり重い裁定を導いてしまった原因があったのではなかろうか、

しかし、である。
市井の立場は法の立場でなければならないとは限らない。法を無視しろというのではなく、法に縛られるなというのでもない。そうではなく、司法の手前で警察が介入する場を作りださないというのが市井の一つの立場であると私は思うのである。民事レベルの問題をすぐさま刑事レベルにまで引き上げるのは如何にも容易なことだ。起業主、販売主からすれば、商品を盗まれるのはやり切れないことではある。しかし、問題の解決には様々な形があってしかるべきであり、罪を憎んで人を憎まずというのは、別に法曹界の常識だけではなく、一般的常識であってもよいはずだ。

98円である。

1円でも盗んだら泥棒だ、というのは法原理においては間違ってはいないであろう。しかし、主義は悪を容易く生むものであることは歴史を知る者ならば常識として理解しておくべきであり、それが何か社会にとって必要なものを生み出しているかと言えば、必ずしもそうとは言えない。98円の消しゴムを盗まれたことに対する今回の制裁は、喩えて言えば、メンチを切られたから殴り掛かるチンピラと同じレベルにある。しかし、これは「出るとこ出ようじゃねぇか」といったレベルなのか。おそらく、違うだろう。

今では、現行犯逮捕については民間の人間であっても、警察力に成り代わって行なうことが事実上可能である。だから、誰でも、非常時においては警察官になれる。すぐに「善玉」になれるってわけだ。しかし、善の何たるかを考える必要があろう。善は、目の前に悪い奴が現れたからといって自然発生するようなものボウフラ的存在ではない。70歳だからといって、諭すことに及び腰であるような人間が善人を気取ってはならない。否、そもそも、法に善などないと言った方が本当は正しいのであろう。ただ、われわれは法を対して理解していないにもかかわらず、法を全てだとは思ってはいないだろうか。法を統べるものが何であるのかが結局のところ分からないところに法は勝手にオッ立っている。それが法の本当の姿である。善はボウフラ的存在ではないとは言ったが、実は法はそれに限りなく近い。原理というのはそもそもそういった頼りないものであるからこそ、体系を必要とし、その上で胡座をかくものなのだ。そこにまた人間が胡座をかくもんだから、話はさらに厄介になってしまう。法のためにボウフラになってはならない。否、こんな言い方はボウフラに失礼だ。勝手に善を担いではならない、何を担いでいるかも知らないうちは。

2009/06/18

盲眼鏡

職業としての翻訳を離れてから随分時間が経った。といっても、本当は何年ものあいだ遅々として進まぬ翻訳の仕事があるのだから、翻訳から離れたとは言い切れないし、言ってもいけない。

とりあえず、翻訳について先日こんなことがあったので紹介してみたい。

知人の日本文学研究者と談笑していた際、あるロシアの詩人の話になった。偶然にも、これについては以前僕自身も学士論文でイッチョカミしていたものだった。通常、この手の話になると水を得たように話し始めるのが人間の性なのだろうが、今の自分にはそれが出来なくなっていた。興味を失ったからというのではなく、当時何をどう考えていたのかがよく分からなくなっていたからだ。覚えていたことといえば、その作家にして詩人の作品の翻訳出版が当時待たれていて、最初に見つけたと思っていた僕は先を越されたという気持ちで一杯になっていたということくらいだった。だが、本音は、まともな翻訳なぞ出来っこないという単なる僻み、嫉みだった。

前世紀(おお!)の20〜30年代の作家・詩人というのは、先ず間違いなく言葉への信頼を失っている。まただからこそ、言葉を復活させよう(というか、退廃を押し止めよう)という信念に燃えていた時代であり、今から見れば作家の自惚れだとさえ映るほど言語の過剰な時代であった(これは今も続いている。世界の崩壊、というか、日常的秩序の崩壊が直接的に言語の崩壊ですらある時代にわれわれは今なお留まり続けており、戦争はなくとも言葉さえあれば人を殺し得る現場を、例えば「イジメ」というニュース用語によって、日常として受け入れている)。

話を戻すが、ここで問題の作家というのはダニイル・ハルムス(Даниил Хармс)という。ダニイル・ダンダンなどのペンネームもあった。失念したが、他にも複数の名前を持つ物書きであった。その彼が37年に粛清されたのち、彼の草稿が入った鞄をヤーコフ・ドルースキン(Яков Друскин)という音楽学者・哲学者がレニングラード包囲の焼け跡から救い出す。確か1989年だったと思う、ハルムスの作品集が初めて一冊の本として纏められ、一躍ソヴィエト末期のロシアにおいてブームとなる。まあ、ブームと言っても、今の春樹フィーヴァーと比較してはならない。再版を繰り返すことは余程のことがないかぎり先ずないロシアの文芸界でのブームに過ぎないから、初版が売り切れになっただけども、すでにブームなのだ。この本を僕は最初、14歳年上の友人から紹介され(貰ったわけではなかった。その代わり、誕生日にザボロツキーの詩集を貰った)、すっかり虜になったことから、絶版状態のその本を何とか探し出そうとレニングラード中を駆け回った。そして、ネフスキー大通りと交差するリテェイナヤ通りに見つけた古本屋で、ウィンドウショッピング用に飾られた初版本を探し当てたのである。

当時、レニングラードにいたのは遊学中だったからだが、この本のお陰でというか、この本のせいで、大学をサボるようになる。否、全く行かなくなってしまった。殆どの時間を上述の友人の家で過ごし、夜は彼と一緒になって川端の「掌の小説」の訳を色々捻り出して過ごした。ユダヤ人である彼の書斎にはニーチェの肖像画があって、書斎のベッドに寝かせてもらう僕は、プロフィールの肖像画だから目が合うことなどないのに、いつも目が合わないように肖像画に背を向けて寝ていた(セリョージャ、君もすっかりオジさんになっていたっけな、離婚するとは思わなかった。酔っぱらって僕が反吐を吐いてしまった君のオフィスに腰掛けていたレーナはそんなこと噫にもしなかったじゃないか。その代わり、君の最初の嫁さんとの子供がファッションモデルをしているという話は、今まで僕にしたことのなかった君の子供の話だった。君んちの台所にあった子供用のお皿について尋ねられなかったことをすぐに思い出したよ、20年近くも前のことだというのに)。あまりに長く居着いていたものだから、仕舞いには自分でスケッチしたナボコフの肖像画を枕辺に貼ったほどだった。なかなかの出来ではあったが、いつも通り、筆致にパンチがない。

ハルムスの話だった。というより、翻訳の話をしたかったのだが、いつも脱線ばかりしている。

翻訳に決定稿はあり得ない。

七十人訳聖書(正式には72人だったと思う)という古代ギリシャ語翻訳が同じ時間に終了し、その結果も全く同じであったという奇跡が語られるが、それは奇跡ということなので、われわれが話すレベルとは違う。しかし、比較の上では神の言葉ゆえの一致があるのだとすれば、凡般の翻訳者もこの奇跡を常に求めているはずなのである。間違いだらけの旧訳を新訳に変えるという時も、皆勇ましくあるのはこの奇跡に近づくべく努力するからだ。しかし、だ。それは適わない。

僕自身、コンピューターにデータを預け切るような懶惰によるのだろう、何度も同じテクストを繰り返し翻訳するというミスを犯している。その度にこれは決定稿だと思っているが、気がつくと、すでに翻訳したものをもう一度翻訳しているなんてことがあるのだ。翻訳の話以前の話だが、実際に何度もやっている。問題はしかし、その翻訳がどういうレベルなのかということだ。質に関しては言わない。ただ、その両者を惹き比べてみて、どう見ても見劣りするものがやはりあるということ、つまり、いつも同じような質を保てるわけではないということである。そこから引き出される経験値とは、単純に言えば、文章は体調が支配しているということ、文体も語調もリズムも、すべて身体に振り回されているということである。知のレベルよりも、身体のレベルが大きく訳の善し悪しを決定してしまうという現実を知ることが大事なのである。決定稿は翻訳にはなく、しかるに、決定版という名のつく翻訳は皆嘘をついている。何の権限もなくそう言っているに過ぎないのであり、そんなものは最初から疑ってかかるべきであり、またなおかつ、新しいからといって良いというわけでは少しもないということである。

翻訳の話をここまでしてきたが、これには読書のレベルも加えねばならないから、さらに話は錯綜する。読む状態、年齢によってもその受容は異なる。受容理論という文学理論が世にはあるが、それが解釈論の範疇に入るものであるゆえに、錯綜を激化させる。読みの質も問題になるとなれば、安定した読みなどどこにもないということだ。翻訳であろうが原典であろうが、読むという営みは最終的に理論化出来ないことを理論化したとしか言い様がない。


こう思うのである。

つまり、文字化している時点でもこの質の高低、ぶれ、善し悪しはあるのではないか、と。受容理論をいう前に、わたしはこの部分を問題にしたい。言語化している時点を。ニュークリティックの「意図を深読みするな」という禁止は読みの誤謬(fallacy)を減らそうとするものであったことは確かである。しかし、書き手が全て正しいものを書いていると誰がいえるのか。書き直したいと思っている作家は五万といようもの。公にしたらもうそれが正しいのですよ、といってしまうのはあまりにも酷であるし、言語の根源的状況をやはり見誤っているとしか思えない。言語は正しく語れないし、語るということは正しく語ることをいつも意味しない。語るは騙るという地口をオヤジギャグだと呼ばれても結構、しかし、言葉は言葉であるからといって、それ自信免罪符であるわけではないのである。言葉とは、いつも狙いを定めているかのような素振りを見せながら、実は照準器に望み込む目は光を失っているのである。現実に出てきたとき、つまり、現実化したときそれは目開きのように振る舞うが、まるでイースター島のモアイの様に、居眠りをしている男の目蓋に白墨を塗り込んだだけなのだ! 

言葉よ、おお、わが盲眼鏡よ!

2009/06/16

JKBSK(自己分析)


われわれの時代を分析できるのか。また誰にそれが出来るのか。

ひとつ前のポストでコメントの話をした。

コメンタリーが”人間的”文化の動力を支える本質的問題であると述べた。
また同時に、その動力を生み出しているのが必ずしも生への意志だけではないことも述べた。
時代は常に自己分析をする。それがコメントであり、自己言及である。
例えば、メディアの命脈はこの自己言及にこそあり、その自覚があるからこそ命脈は保たれる。
さもなければ声は容易に怒号と成り果て、無責任な呟きへと縮んでしまうものである。
そんなことは誰もが知っている事であるが、それを知識として知っていても、体にまで浸透していないことはよくあるだ。

コメントは書くことである。しかし、それを書く時には書く当人は聞いている。最初に聞く人間である。
書くと言っても、これは声である他ない。さもなければ、誰にも聞こえないし、聞いてもらえない。だから、声に他ならない。

自らの挙げる声に耳を傾けない時代、あるいは、そうしようと思っても聞こえない時代というのがあるとするなら、
その時代は最も(既存の)文化に従順であり、図らずも耳だけの時代なのである。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、自らの声に耳を傾けないとなれば、そこに先ず最初に輪郭をはっきり表すのは自らの声を聞いていない人間の耳である。

それは、皮肉を込めて言えば、墨で書いたお経を体中に纏いながらも耳だけは無防備に残してしまった”芳一”の如く、聞く耳を持てなくなる耳だけの時代である。つまり、耳だけが残る。声を張り上げる事だけに賢明な人間たちの無数の耳だけが取り残されて行く時代である。

そこには何を聞く事も出来ない耳だけが残る。
文化に従順であるといったが、従順であるという事は自らの内側にしか耳が傾いていないという事、つまり、耳など要らないということだ。そのときにすでに自らの耳は耳ではなく、すでに人に呉れてやった体の一部に過ぎない。耳はオブジェ化するが故に、誰に呉れてやっても惜しくないのである。文化は耳よりも声を大切にするものであり、それが声の防護壁を作る。

耳の発生を考えてみよう。
耳が聞こえるのは声があるからであって、耳があるから声が聞こえるのではない。このプロセスが逆転してしまったのは、耳にふたをすると聞かなくてもすむという技を知ったからに過ぎず、最初から耳があったわけではないことを考えれば容易に分かる。もう一度いうが、声があるから耳にはそれを聞くという機能を担うことになったのである。

コメントというのは、この耳を機能させながら、自らの声を聞き続けるものでなければならない。そうしなければ、その耳は奪われる。つまり、機能不全ということだ。そのとき、惜しみなく自然は奪う。文化が自然に破れる瞬間である。文化と結託していたはずの耳は外的自然呑み込まれ、自然にも文化にも属することが出来なくなる。それが惜しみなく奪われるという意味だ。

最初の問いを少し変えてみよう。自己分析は可能なのか。
結論を言えば、一つの条件を満たせば可能であろう。
それは、耳を自らの文化に隷従させないことであり、自然に還らせないことだ。要するに、常に手入れしておくことである。

2009/06/11

Dysentary OR Commentary

今日は「コメント」について考える。予め申し上げれば、楽しい考察ではない。

コメントはコメンタリーと基本語義は同じなのだろうから、commentaryというのが元の語だ、きっと。
少し気になるので辞書を開いて確認してみた。
ラテン語のcommentarius「注、注解、解説」のような意味だ。
つまりは、テクストという言語化された思考に対して付加されていく言葉、てなほどの意味ってこと。

文化のある世界には日々コメントが数多く生み出されていく。今、ここで起こっているようなことだ。
文化こそは自らにコメントを加えていく装置である。
文学研究然り、精神分析然り、すべて他者の言語をめぐるコメントであって、まさにそうすることによってコメンテーターは自己に気付き、失望し、落胆する。それに終わりはなく、またしたがって、あまり気持ちいいものでもなければ、必ずしも精神的に健全なものではない。ただ、それを端で見ている人間にとっては豊かな財産となるものでもある。

コメントのあるところには文化がある。動物に文化があるという霊長類学者はいるだろうが、それとは大分違う。
善し悪しに関係なく、コメントは文化を目指し、そしてすでに耕された土地をまた再び改良しようとする。ただし、改良というのは言葉の上での話で、実際には改悪されることも十分あり得る。その理由は後述する。

インターネットは文明の発明であって、上に行った意味では何ら文化的産物ではない。
コメントを保存したりすることは出来ても、また、インターネットが文化の形を変化させることがあっても、文化を創ることはない。
語弊があろうとも、そうなのである。インターネット文化といってみても、それはインターネットが文化の代替であることを意味しないのと同時に、最後まで媒体であり続ける。なぜなら、インターネットは単純に、コメントなどを必要としていないからだ。そんなものがなくても存在することが出来るからだ。

文化は死を目指す、というか、死に根ざしたところがある。
いかに逆説的であろうとも、情報の保存という営みは、裏を返せば、それが死と隣り合わせであるから生じる挙動だということを証明している。文化主義者というのが一体何かということを考えると、生がこの死と隣接したものに過ぎないということを知っていても黙っていることにあるのだろう。改悪された文化とは、生に偏向したコメントしか生み出さない文化のことである。それは、自らの言葉がすでに他人の言葉であることを知らないコメントであり、言葉が鏡面であることを知らない人間がそれを生み出す。そこに豊かさは生まれず、貧しさばかりが増殖していく。個人の言葉はいずれ朽ちていく。場合によっては瞬間的に消えていく。その代償は様々であるが、いずれは消え失せるのである。そこまで辿り着くことを知っていながらそれに思い至らない言葉たちは、しっぺ返しを食らい、未来の肥料となることすらなく蒸発していく。

生と死の両価的な現象として文化。日々、衆生的コメンテーターの言葉に一切の感慨を覚えないのは、彼らの目には死が映っていないことが理由かもしれない。文化がなければ、死は悲しいことではなく、生も喜ばしいことではない。死をあるいは生を悲しくも喜ばしくもしているのは、装置としての文化が機能している限りのこと、つまり、死の悲哀や生の歓喜を再生産しているからなのだ。

2009/06/07

冷めた食餌

ガボン大統領死去のニュースを何の感慨もなく紙面で読む。この感慨のなさは殆ど病に近いのだが、今日の話は現代の病理についてではない。至って身近な話、「家事」である。

現代政治の流れは”民主的なもの”、あるいは、その保守に結びつけて考えられることが多い。それに反するものはどのような場合であっても”反動的”であるとして忌避される。保守は現在時への繋縛傾向が強いにしても、反動とは呼べず、伝統主義と名づけることもまた正確さに欠ける。安定を目指すとすれば、いずれの政治的態度においても「家事」がすべてを決定していく。収支、借金、赤字の家政学がわれわれの行動全体を支配するのである。この支配を逃れる術こそは、独り身の孤高なのだが、共同性を排除することからくる生の不確実性まではこの孤高も排除することは能わない。

上に述べた意味で、つまり、「家事」の術を操るという意味では、民主的であることも保守(あるいは反動)的であることも互いに矛盾するものではない。では、「世襲」というのはどういう位置づけが出来るのだろうか。「家」という制度は定義上、家の世襲的性格によって維持されるし、男系であろうが女系であろうがその性格を失ってしまえばすでにそれは家ではなく、ただの人間の集まりに過ぎない。あるいは運命共同体と言ってもいいが、その呼び名は重要でないし、その価値についてもここでは問題ではない。世襲によって何が守られているのかを考える必要があるのだ。

世襲禁止というのが現国政の焦点となりつつある。その議論の始点は恐らく、世襲そのものが本来的に持っているかのように見えてしまう「反動性」あるいは「保守性」を目の敵にしたところにあるのだが、政治をその「家事」的性格から見た場合、世襲的であることを果たして避けることが出来るのだろうか。政治は支配するものであり、またその支配から逃れることによって別の支配を作りだす運動である。「家事」の放棄は支配の放棄であり、支配の放棄とは自発的に隷属化することを意味する。

世襲について考えるには政党についても考え及ばねばなるまい。革新的とされる政党が挙って世襲を禁じる姿勢を見せているが、果たしてその挙動の一体どこが革新的であるのかには疑問を持つことが必要だ。政治家の世襲を禁じるとしても、そこには必ず支配持続の運動が必要とされるのであり、政党というのは政治運動化された「家」制度として機能している限りは、また世襲政治の欠落を補完しもする。世襲批判の一貫性の無さは、原理上支配維持の原則からは逃れようのない「家事」的性格を政党もまた持たざるを得ず、それは同時に「世襲」的であらざるを得ないということを黙っているところにある。

さらに、世襲政治家に対する批判以前に、一番の問題はどこにあるかと言えば、それは選挙時における有権者の選挙行動である。この最も手垢に汚れ易い政治行動がすべてを決定しているのであるとすれば、世襲批判以前に、政治運動の大衆化がいかなる功罪において判断されなければならないのかを見極めねばなるまい。罪の部分には迎合しかり、ファッショしかり、あらゆる大衆化の危険が潜む。家事については人間のみならず、昆虫もそれなりに営んでいるものである。大衆意識が末端肥大化しても昆虫の家事であれば、世襲であろうとなかろうと、頭脳組織は針の穴ほどもあれば十分過ぎるくらいなのだ。

国政は民が昆虫になればなるほど楽なものであり、世襲の問題などはこれっぽっちも重要でない。それは諸々の結果に過ぎない。こんな冷めた食餌では誰も喜びやしないのである。

2009/06/02

アウクツィオン「道」(1993)

Pereat vita...

二つのことに気づく。

人には気質というものがある。私は血の気が多いほうではなく、鈍重というわけでもないので粘着質でもないのだろうが、鬱々といった気分が支配的であるわけでもない。やはり、気難しいといったほうが正しいのだろうか。そうなると、いわゆる”黄胆汁”の気質なのだろう。

少年時代は昔は血の気が多かったほうだと思う。転校生だった僕は、いつもポケットに尖った石を忍ばせ、いつ来るか分からぬ仮想敵からの保身に備えていた。というか、母親の話ではそうだったらしい。勉強もそこそこ、運動は学年でもピカイチ、と言えば、今ではどこか嘘っぽいのだけれど、運動は万能だった。ドッジボールをしても絶対にあてられることがなく、どんなボールも今思えば神業としか思えぬこなし方で捌いては、必ず最後の一人になるまで粘った。

そんなある意味幸福とも呼べる少年時代が音もなく過ぎると、一気に舞台の照明は暗転する。何が変わったわけでもないが、膨らみかけた少年心理は内向へと傾く。スポーツからもほどなく離れ、音楽が僕を支配する。流行りの音楽もそこそこに、二十年以上も前の舶来ポップスを一心に聞き、分かりもしない英語の曲ばかりを聴き始めた。もしかすると、この頃が最も自分にとって幸福感を実感出来ることの出来た時期だったのかもしれない。本当に一心だった。

今振り返ると、自分が何をやりたいかなどと考える暇などなかったと思う。そもそもそういった問いは文字通り暇な人種にしか、あるいは、意識が散漫である人間にしか生じることのないものなのかもしれない。こういうと叱られるかもしれないが、きっとそうなのだ。仕事もしかり、一心に何かに打ち込んでいる間は、問いは生じない。これが可能になるのは、問いを提示することを生業とする職業か、さもなくば、それに憧れているだけの凡庸なる俄哲学者においてしかない。

だれも、かっこのいいことには憧れる。マーケットに溢れる哲学書に耽り、日常を批判する哲学者を知って、その勢いでというか、その戦略に嵌ることの何と多いことか。僕には苦手である、そういった日常批判に自らの日常を批判せぬま飛びつく連中は。ハイデガーはそれなりに尊敬はするが、その後に連なる輩どもは、どうみてもネオナチに見えて仕方ない。話が脱線した。今日はどこか脳の奥と指先がおかしい。

二つのことに気づいたというのは、次のようなことだ。

先日トイレの水が止まらなくなった。そこで徐にタンクの蓋を持ち上げ、中の水量を確認する。異常はないかに見える。しかし、水はいっこうに止まる様子を見せない。そうしていると、見る見るうちに水の嵩が上がり、かろうじて配管口から水が流れ出していたので、外に溢れ出ることはなかったが、どうしても水量調節が分からない。そもそもトイレの仕組みを知らないからだ。よく見ると、トイレタンクの仕組みが至って単純であることが分かった。水嵩の上昇に合わせて、調整弁と連動したブイが持ち上がる。すると、最後まで持ち上がったときのブイの角度で丁度調整弁が閉まる仕掛けになっているのである。そうなるともう、水は出てこない。ブイは水面に浮かんだ状態で、流水口を調整弁で閉じるのだ。トイレの水が止まらなかったのは、問題のブイがネジ式で取り付けられている部分から緩みだし、知らぬうちに外れてしまっていたらしいのだ。それが分かると後は単純。ふたたびブイを所定のメス部分に捩じ込み、正常な状態に戻った。ここにきてはじめて気づいたことを述べる。私にはこの自分の分からないものを一から点検し、問題の原因を探り出し、果てはその未知であった仕組み全体を解明し、なおかつ問題を解決するという「修繕」の本体に異常に心惹かれていることに気づいたのである。

以前からマニュアルを読むことがない私だが、そういった人は多いと思う。それは面倒であるとか、そうするに及ばない、と色々理由はあり得よう。しかし、私の場合、マニュアルを読むと楽しみが半減するという意識が常にあった。未知のものであればよいのを、わざわざ解説してもらってどうするのか、という意識だ。ただ、こういう意識はときに裏目に出てしまうことがある。職業的ではないこういった態度は、例えば論文を書くなどという作業では禁物だろう。私自身による解決だと思ったことが、すでに世に出て久しいありきたりな解決案だということも生じかねないからだ。いわゆる、井戸の中の蛙状態。

もう一つ気づいたこと。

これは手短に書こう。
最近のことだ。私は教育者という立場で職場を毎日点々としている。意識はしていなかったが、それが私の外面的な姿であり、また要求されることでもあった。もともと、教える能力に劣等を感じる自分は、なるべくそういったことを考えないよう務めてきたこともあり、自らの職に対する気負いといったものも特に感じなかった。しかし、今日、自分が教育者として自覚し始めていることに気づいた。これまでならば、それはとてもあり得ないこと、常に学ぶ者という姿勢を失いかねない危険な自覚ではないか、と常々警戒していた。ところが、年月は人を少しずつ浸食するのである。あるいは、私自身がこのような警戒心を自ら浸食し始めているのかもしれない。

「修繕」と「教育」。この二つにはどんなつながりがあるのだろうか。前者は過去への執着を示しつつ、いつでも朽ちる可能性のあるものを現在に従わせる。後者は現在を素材とみなし、そこから可能の未来を彫琢する。過去と未来の狭間にあって、その犯すべからざること、犯罪的であることは、過去と未来を現在に還元し尽くし、それを静観する態度と言えばいいのだろうか。言葉はこれ以上尽くさないが、多分その辺のところを考えておけばいいのだろう。今を永遠として。

2009/05/24

オルゴールの戦慄

先ず想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める...。

今、大学でゴーゴリの「狂人日記」を読んでいる。
今日の授業で読んだのは「脳の在処』に関する箇所だった。

「人は脳が頭の中にあるって思っているようだが、実は、脳ってのはカスピ海方面から風に乗ってやってくるんだ」

9等文官として役所勤めする主人公ポプリーシン。本当は貴族の出なのに、どうしてよりによって自分は書類の抜粋だの清書だの、上司の羽ペンを削るだのと、どうでも良い仕事ばかりしているのか、否、本当は中の下の役人なんかじゃなくて、スペインの王なんじゃないか、と考え始めるシーンである。

文学作品に表現された「狂気」などと一括りにしてしまうと、大した実感は得られない。そもそもどんな文学作品を読んでも、読み手はすぐネガティヴな想像力を起動させてしまうので、ついつい「狂気」みたいな言葉を軽はずみに使ってしまう。実はもっと、この「狂気」じみたことというのは日常に転がっているに違いない。それを今日、僕は実感した。

僕の住む家は、日本には珍しく、細い道を挟んで立て込んた軒並みがまるで中世都市の深い迷路のような場所にある。つまり、家自身が巨大な迷路の壁を作っている。その道を挟んだところに一軒の家があり、授業からバイクで家に帰ってくると、そこから女性が顔を覗かせていた。ご近所なのでご挨拶をする。それを特に嫌がる理由もないからだ。

井戸無しの井戸端の話が始まる。

ただ、その話の雲行きが怪しいことに少し気づく。何ヶ月も話をしていなかったので、彼女の風貌にどこか老けてしまったところがあるのにふと気づくが、最初のうちは、さもありなん、以前はこめかみ辺りの白髪に気づかなかっただけなんだろう、と思い直し、また話の軌道に乗る。いや、その振りをした。

”先生は頭がいい人が就く仕事、給料は高かろう、否、初任給程度、家賃はいくら、こんだけです、いやいや、まさか、いやホント、定職にあらず、おたくの家の家主はゴミ会社経営よ、前の住人はそこの雇われ人で、あんたの仕事は肉体労働とは比べものにならへん、うちの亭主も肉体労働もしてて...で、ところで、おたく家賃はいくら、こんだけです、ほお、で、おたくの家主はゴミ会社経営でね、前の住人雇われ人...。”

「え、待てよ...これはスパイラル・トークだ。」(僕の内言)

自動機械というのがあるが、これは一定のアルゴリズムに従ったプログラムによって稼働するものだ。つまり、からくり。人間との違いは、このからくりを意識出来る能力を持っていないことだけで、他の点では似通っている。ただ、人がこのからくりで動いていることに気づいていない時、それを端で見る人間は「戦慄する」。

喩えはオルゴールでも構わない、音の小箱、ミュージックボックス。
旋律が自動で奏でられる。聞く者は少しもその自動旋律に戦慄したりはしない。言葉遊びが過ぎるが、人間は普段、随意の旋律を奏でるからこそ戦慄しないでいられる。ところが、突然、今日起こったような不随意の旋律が聞こえてくると、戦慄してしまうのである。

もう一度想像してみよう。
突然、自分の体から無数の突起が浮き上がり、見る見るうちにその体は円筒状になって、その回転とともに突起を小さな舌で一つずつ爪弾き始める。

これはいわゆる「不気味なもの」のことだ。誰でも知っているつもりでいるものだ。しかし、日常にこれが溢れ返るようなことがあるとしたら、人は多分まともに生活することなどできない。

2009/04/28

禁止してはならない


道路を歩いていると信号無視をする人が少なからずいる。 私も時にはその一人となる。 急いでいるからとか、待つのが面倒だからとか、色々と理由はある。 禁止というのは、その「色々ある」というところに一切理解を示さないところに始まる。 もし、その「色々あるわよね」という相槌を一々打っていたなら、禁止は成り立たない。 禁止の目的として、制御する、保護する、規制する、として色んな理屈づけはあるが、要は、「事情」を理解しないところにすべては始まる。 あるいは、インフルエンザに罹ったといってマスクをしてみる。皆に迷惑をかけないためだ、とか。 あるいは、道ばたで殴られたけど、俺はプロボクサーなので殴り返さなかった、とか。 この禁止、フロイト風にはこの無理解を、「自我」を乗り越えたもの、つまり「エス」という訳だが、どうもこの個から超個(公共性)への一足飛びを鵜呑みにするからこそ、共同体はそれ自身であり得るようだ。 でもやはり、「エス」だとか言われたって、急いでいる人間にはそんなことお構い無しである。どれほど危険であっても、だ。その時、この個は超個の網からはみ出していて、その後でまた網に戻ってくる。 これを他の個もおっ始めるとどうか。 歯止めの網は網でなくなり、緊密に縒られていた糸は解かれ、仕舞いにはバラバラとなる。 共同体の危機、社会の危機、堕落、モラルハザード...まあ、色々な言い方で呼ばれるのは、要はそういった状態のことを指している。 最初から大きな「エス」が実はあるのではなく、個それぞれに超個は備わっている。それがフロイト的なエスなのだが、そのコントロール能力は絶大で、むしろこれが無ければ社会など最初から成立していない。 ただ、人間的個を集団が育んでいくに従って、個は人間性を、集団は社会性を帯び始める、というか、それを求め始める。養ったその見返しにという理屈だ。そして、そんな見返しなどヤナこった、と突き返して超過する個は、その存在そのものが何かはみ出したもののように見えてくる。つまり、邪魔なわけだ。 そして、次がトリッキーなのだが、この歪んで見える個を人格として認めてやるのが父なる法であり、また同じことだが、部分と全体のそれぞれが持つ「エス」のあいだに楔として打ち込まれるのが法である。 逆に言えば、歪みを補正するという意味で、社会全体の歪みをむしろ表面化させているものこそが「法律」だと言える。 健康増進法(?)だったかどうか、名前をはっきり覚えていないが、これなどもそうだ。 どれだけ長寿の国であろうとも、その内実が透けて見えてくるではないか。 早く死なせてやればいいところを、不随意に生かし続ける病院、またその病院の病疾的体質... そんな国、少しも健全な国ではないし、法律で増進するわけが無い。 このような我らが父なる法は、死に際の何たるかを考えていないようだ。 とにかく、健康増進という名前自体、死の隠蔽すら感じさせる。 いや、もしかすれば、この法の隠蔽しているものは、自らの精神の死なのではなかろうか。

2009/04/24


今、机の両脇には本の束が山を作って、視界を邪魔している。実は、家内が実家に帰ってからほぼ一週間が過ぎてから、そろそろ良かろうと、”ハメ”を外したからだ。

ハメ外し、つまり、本の購入である。

本当ならば、ハメ外しというのはそれなりに愉悦を伴うものであるはずが、私の場合はどうしたことか、自ら抑圧に手を染めてしまうのだ。読むかどうかのあても分からぬ古本を、決まってこうどっさりと買ってしまうのはもはや一種の軽い病疾なのだろうが、それでも本は止めるわけにいかない。

「書きあぐねている人のための小説入門」という本を昨日から読み始め、同時進行で「感動の幾何学」という変な本を片手に置いている。別に、小説家になろうというわけでもない。むしろ、なぜ人は書くのかということがここ十年以上私の頭から離れない、自分でも奇天烈だと思う問いに苛まれているからこそこんな好事家の本を読むのだが、だからと言って、自分を好事家の類いに分けている訳でもない。

どちらも文学者の手になる本なのだが、かたや研究者としての文学者の本、かたや純粋に小説家の本。二冊を読んでいてやはり小説家の書くものの方が説得力があるのはどうしてか。素直ということか。

研究者にもよるが、型にはめていく書き方はどうも読んでいるわれわれを誘導しているのだという意識を与え過ぎてしまうのだろうか、読んでいてあまり心地よくない。退屈ですらある。研究も創作も、私にとってみれば、読ませるという意味では全く同じもので、こんな発見があったんだよ、という発見の経緯を説明されても仕方のないことで、むしろ、読書という行為そのものが発見であって欲しい。

「書きあぐねている...」を書いたのは保坂和志氏だが、彼の本は何冊かすでに読んでいる。ただ、読んだ本のいずれもが小説ではなく、小説家はこんなことを考えて小説を書いていますよ、的な本ばかりで、実際それが面白かったものだから、小説の方を注文してもあまり読んでいない。本人には悪いのだが、小説をこう書いているんだ、こうは書かないんだ、ということを読んでいる方が面白く感じてしまう最近の私には、小説一般の善し悪しはもうこの際どうでもよくなっているのである。

保坂氏曰く、「小説を書くこととは最初に解決不可能だと思うことを提示し、それを解くこと」だという。

人間がモノを書くという営みに興味のある人間にとって、作家自身が上のようなことを言うのを聞くのは大変面白い。作家も人間であるのだという最初の問いの前提に引き戻される気がする。作家は問いを立てるだけではないという、あまりに当たり前のことを忘れていたのだろうか。

「作家」という奇妙な日本語。近代のいつ頃から流通しているのかは寡聞にして知らぬが、私などは例えば小説が常に一種の問いかけだと考えていたものだから、自問自答の形式が作家の存在様態であるということ聞くのは、変な話、意外ですらあった。つまり、小説は読まれなければ始まらない、という一種の先入観が私にはある一方で、誰に読まれなくともそれはそれとして存在するのだろうというアウトサイダー的発想が常にあったのである。書いたもの(書くという思考)を読んでもらう、また、書くことを思考の片鱗として現わす、ということをもう少し突っ込んで考えねばならないのだろう。

2009/02/23

不妊官僚



バチカン観光から数日が経った。

何も新たしきことは起こっていない。
最初から仕組まれていたことだと勘繰る輩も多い。
この手の騒ぎ、スキャンダルにもならぬものの裏を取って記事として配信する通信社・新聞社は恥を知れ、と言わねばならないが、まあ、この際どうだっていい。

しかし、だ。
以前にも書いたことがあるが、大臣とは、文字通り、臣の長の謂であって、いわゆるsubjectの親玉である。
このスブエクトゥムの中にはヒエラルキーが当然のように生じて(上下スライド式の階段)、皆は梯子を踏み外さないようじっと固唾を呑むのを常とするのである。

年功序列はその年齢を基準とした同型システムで、儒教思想がどうのこうのという以前の話として、家長に対する家臣間の摩擦を最小限にするための、至って簡易な階層システムなのである。これが合理的であるかどうかは、また別問題だとしても、そこに個人の意志を膨張させる思想は極力最小限に抑えられねばならず、したがって、儒教とはその集団的合理性の結果産み出されてくる副産物にすぎない(無論、孔子が放浪する呪術家であったという説[白川説]もあるので、これだけでは収まり切らない話だが。ただ、集団的生の記憶を連続させて時間サイクルをそれなりに巧妙に社会システム化しているがため、儒教的社会は一気に破綻することを免れているし、またそれを破壊させることも極めて困難である。

今回起こったのはまさに、邪魔な奴の梯子の桁を鋸でこっそり切り落とし、ナラクに落ちるのをそのまま傍観するというほどのことにすぎない。何も陰謀があったなどといったことではない。これなどは日常茶飯事的(システマティック)なことであり、しかも、現代日本官僚ならば当然黙認する手段だったのである。あるいは、われわれもこれ以外の方法がなければ消極的にせよ採用するライバル消去法である。イジメもこれと構造的にはまったく同じである。

こう考えてみると、非常に象徴的な事件であったとも言える。
つまり、国益という点から言えば、現代日本の官僚システムは、仮想的主権者が最後に登り詰めたところにあるはずの国益に到達する桁などそもそも存在しない無窮の家臣団梯子だということである。

単純な話、国の恥というのはこの際どうでもいいことである。(たとえば、集団的自衛という言葉の意味も本当はここから考えてしかるべきであり、これなどは、最終判断・決定を行えるものがどこにいるのかという問題を、「恥」だの「国辱」だのといった情緒的な言葉で粉飾しているのと同然なのである。)

高級クラブマン=官僚はこの手摺りなし階段に足がかかっているあいだは少なくとも、国益を優先するという建前(クラブ会員権)を手放すことはないが、少しでも足を引っ張る奴がいれば、それが大臣であろうと誰であろうと、お構いなしにパージを開始し、束の間スポットの当たった政治家人形を再び舞台袖へと追い返す。

ちなみに、蟻の社会と人間社会の社会的特性の違いとして、不妊カースト(繁殖行動を起こさない階級)の存在が挙げられるそうだ。これが現在では、蟻社会の社会性を新たな定義となったことにより、統率者、つまり、最終決定権を有する者の存在は蟻の社会性の定義からは余剰とされるようになったという。しかし、この蟻の社会性特徴は上に挙げた官僚梯子の比喩と恐ろしいまでに似ている。人間社会の一般的な社会性特徴とは区別されるはずのこの不妊カーストこそは、われらが家臣団ではなかろうか。あるいは、それよりもひどいかもしれない。無窮の梯子に身を寄せて、実際には何も決定することがないし、出来もしない。女王蟻のお産を分業して助けるといいながら、最終的な責任をとらないのだから。これが、不妊官僚である。

2008/06/13

鼻風船


「モンスター」という言葉について。

今日は先ず最初に、次のことを確認しておこう。
英語などの外来語を流用して、発話しようとする言葉の本来もつ力や勢いを和らげるという発想が日本語に存在することは恐らく間違いない、といってよいだろう。当てずっぽうではなく、これは言葉の問題である以上、思考の問題でもあるからだ。もっとも、日本語「的」発想が問題なのではなく、日本語の発想が問題なのであり、日本語でモノを考える日本人の固有の問題である。

さて、本題である「モンスター」という言葉である。

この言葉に「ペアレンツ」をつけて使用する連中は、このペアレンツを「化け物」と呼ぶことで、彼らを鬼に成り下がって深山に隠れていたはずの元人間、つまりは、本来はまともな人間=社会人たちとは一定の条件がない限り交渉してはならないはずの、出来損ないだとみなしている。

だが問題は、これを「社会問題」とまで呼んでしまったということにある。というのも、この親たちの世代を暗に出来損ないを多く含む、反社会性の強い世代だと言っていることにある。世代論というのは眉唾でもって聞いておく必要がある。というのも、世代は常にその上下に連動しているからこそ世代と呼ばれるのであり、何も特定の一世代がボウフラのように降って沸いてきたわけではないからだ。その縮図が亀田親子であろうが、これには悲壮感すら漂っている。ただ、次世代に教える教師には正面と反面の両面あるということは確認しておく必要があるし、トラディションという意味で、親も教師も同じ。そこに差異は断じてない。

世代は基本的に酒の醸造と同じ作り方でこの世に現れる。布団を醸造所に持ち込んで寝ずの番をする杜氏と同じようにして、本来は新しいものはこの世に生を受ける。それが、現代はそれに費やす時間を惜しむ。怪物=親はその結果にすぎない。

今の小学生の親は20代後半から30代にかけての連中であるが、ということは、生まれは昭和70年代後半から80年代の連中である。その連中の親は恐らくほとんどが戦後生まれの連中である。連中が大学に行っていたとしたら、その時期はバブル期の前後に丁度当たる。この時期に一番良い思いをしていたのは彼ら自身ではなく、その上に乗っかっていた連中、言うならば、今ここぞとばかりにバッシングしている連中、そのバブルの恩恵を受けていた奴である。それが「社会問題」とほざく。ほお、面白いではないか。

要するに、社会問題化していたはずのバブルを問題とも感じていない連中が色々と記事を書いているのである。社会道徳からのドロップアウトよりも、奴らの倫理的ドロップアウトを糾弾しないことこそが社会問題であろうに。

ここで一句

鼻風船 床すれすれに 垂れ下げて
鬼か 阿国か 夢醒めやらず

2008/06/08

GOOGLE自動翻訳ごっこ


今日はGOOGLEの翻訳機能で遊ぶ。

先ずは、オリジナルのテクスト。
【夏休みちびっ子クイズ大将!】

司会者:最後の問題です。お姉さん、よろしく。

お姉さん:「人類に共通の敵とは何でしょう?」

司会者:答えがわかったちびっ子は鼻に付いている赤いボタンを押してね。

「ピンポーン」

司会者:はい、では、岡山のヒロシ君、答えをどうぞ!

ヒロシ君:いじめ問題だと思います。

司会者:ヒロシ君、残念。いじめじゃありません。もっと、問題はユニヴァーサルだよ。

「ピンポーン!」

司会者:はい、では三重のアキヒサ君。

アキヒサ君:テロ?

司会者:ブー。違うよ、違う。そんなの生易しいもんね。もっと身近なことです。

アキヒサ君:じゃあ、モンモンやくざ?

司会者:あの子、摘み出して。じゃあ、お姉さん、答えをよろしく。

お姉さん:正解は、「死」でした。

○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
これをロシア語へ変換(ここでは省略)し、さらに日本語へ翻訳。

【夏休みの子供たちちび参謀本部クイズ!】

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とは何ですか?"

モデレータ:その答えが見つかったひき生産子供には、赤い鼻のボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山博に、に答える!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:宏ごめん。ミスターいじめです。さらに、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン!"

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しいの" Sします。もっと身近します。
安芸hisa私:そのため、月月-犯罪者ですか?

モデレータ:ことを選んだからです。ええと、お姉さん、ご多幸をお祈りに答えています。

シスターズ:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵とするとはどういう意味ですか? "

モデレータ:ひき生産の答えが見つからないの子供がいることで鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山、その答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月-犯罪者ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の多幸をお祈り申し上げます答えです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○

司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産ていないと答えて、子供の鼻が赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、お客様のご多幸をお祈り幸せに回答します。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産と対応していない子供たちは、鼻の赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、宏岡山答え!

宏君:いじめの問題と思う。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、お姉さん、お客様の非常に最高の幸福に対応しています。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
司会:最後の質問です。と彼の妻、よろしくお願いします。

と彼の妻: "我々の共通の敵これはどういう意味ですか? "

モデレータ:工場の生産を満たしていない場合、子どもたちや鼻、赤いボタンをクリックします。

"ピンポーン"

司会:はい、岡山宏答え!

宏君:フーリガン行為の問題と思うのです。

モデレータ:申し訳ありませんが、ヒロシです。ミスターいじめです。加えて、この問題は、普遍的です。

"ピンポーン! "

司会:はい、トリプルアキhisaすることができます。

私hisaアキ:テロですか?

モデレータ:ブーです。いや、いやです。ここ生易しい"サンタが近づいています。
私hisa年齢:以上の結果、 7月に-犯罪ですか?

モデレータ:かを選択できます。ええと、あなたの姉妹、福祉の回答をして非常にベストです。

姉妹:正しい答えは"死"です。
○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○
いずれも、最後の答えだけは正しく変換された。自動翻訳、恐るべし。

2007/09/13

Don't make a FOOL of yourself, Free CHINA!

何はなくとも、今はチャイナなのか。
100円ショップがなければ生きていけないわけではないが、ひどすぎる話もある。

先日、トランプをたまたま買う機会があった。
プラスティック製のトランプだ。
安物買いを避けようとしたが、ダメだった。
箱を開けるとナンジャラホイ。
41枚のお出まし。つまり、全部で11枚も足りない。

フリーマーケットでももっとマシだろうと思ったが、
それとも、中国では41枚が正統なカード数なのだろうか。

100円ショップを殿さま商売と呼べないとしたら、これなんぞは足軽商売とでも呼ぶのか。

ちなみに、ジョーカーはしっかりと二枚揃い。
すっかり担がれたぜぃ。

2007/09/01

人は悪ゆえに正気なり


こんな声が聞こえてきそうだ。
「不思議でならないのよねぇ〜。そう、裏金・不正受給が問題になってるけどさ、表金ってのはどうなのよ。
それって、いいわけ? 特定の支援者が払ってるお金って、結局は利益供与に何ないわけぇ〜?」

利益供与とは、商法上の話として考えた場合、総会屋のことがすぐ思い出されるが、赤の他人の人間関係なんてのは、そもそも全て商法的な言葉で片づくものである。つまり、利益不利益のバランスに基づいて人間っつうのは動いている。「金じゃねぇんだよ」との非難もあろうが、利益とは金だけじゃないということを断っておこう。

政治家の裏金とか、不正献金とか、不正受給なんて話が多い。だが、そんなことはどうでも良いと思うべきだろう。
そもそも、政治家は何某かの利益保護を代表する。そこに、裏も表もない。つまり、利益保護を代表する限り、それを貫かねばならない。
「政治汚職」とは、上に言った意味での政治家という職が清貧であるとの幻想の上にしか成り立たない虚言である。
職を汚す、というのであれば、それは政治家業という「業」を全うしていると、私は思う。
思う、と書いたが、それは、その業を全うすることを正しいと言っているのではない。
要するに、政治家は「聖職」ではないと言いたいのだ。

やらせればいい。不正受給していようが、領収書を5回ほど使い回していようが、どうでも良い。
それは政治家職の清貧でないことを彼らが身をもって実証しているのだから。
悪の実証である…悪人正機?(五木寛之じゃあるまいし)

五木寛之で思い出したが、四月の帝国ホテル前ですれ違った。上野公園のジャズフェスティヴァル後の花見のあと、地下鉄経由で六本木を歩いていた時のことである。
悪戯半分で、ロシア語で話し掛けようとしたが、大層べっぴんの編集者風麗人が同伴だったので、止めた。

ちなみに、あの髪型は、闇夜でも絶対分かる自信がある。


「カラマーゾフ、万歳!」

2007/08/24

スカラベの品性

「格調」という言葉を久々に聞いた。
中国からのニュースだ。
またかぁ...とお思いの向きもあろうが、そうではない。
陳腐な「プラスティック・サージャリィ」のお話。

今時は、品よりも品ー物(商品)を売り物にするものであることは3歳の童子でも知っている。
「あれ買って」「これ買って」と泣きつく子供はこの際どうでもよい。
「格調の低い番組」という批判というよりも、中共のオリンピック対策がらみのキャンペーンであろうか。
矢面に立ってあえなく倒れた品に欠けた番組の説明をするつもりは毛頭ない。
ただ、二、三点言おう。

モラル向上キャンペーンにせよ、”顔面粘土”手術(整形)にせよ、全て「表層」面が問題になっている。
少し前の日本のガングロにせよ、美白にせよ、「見た目が9割」にせよ、”即物的”という老人じみた言葉を使う気はない。
寧ろ、そもそもが「唯物的世界」に人間はどっぷりと浸かっているのだということ、
つまり、意識などは所詮、誰にも知られなくてよいもので、二の次三の次の代物だということだ。
「意識を持て」などなどの黴臭い精神論の古いことは確かだが、
「儲かりまっか」的商人意識を持つ気にもこれまたなれず、似而非サムライ節を吹聴して回る気にも毛頭なれない。

つまり、全ては商売ショーバイであり、生き残るためには整形することも辞さないのだ。
これはとりもなおさず、消費者層にまで降りてきた商業主義的サヴァイヴァルであり、
その時、女はマスクで男を騙し、男は金で女を騙す。至って分かりやすい昆虫の世界だ。

スターの顔は昆虫化し、そのわざと歪ませた鈴虫の声で媚びを売る。
駆け出しの少女趣味アイドルは、その媚態で高解像度のスクリーンを一面ピンク色の春にする。

この時代、太陽も転がさぬスカラベである限り、死の後も再生はない。
それはただのフンコロガシであり続けるのみだ

2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。

2007/08/22

アニヤ・ヒドンマーケット


アニヤ・ハインドマーチのエコバッグ完売。私の大好きなエコな話題である。

いつこのバッグが完売になったかなどは知らない。
しかし、日本の代理店のホームページでは「完売」とあった。
エコな時代である。

そもそも、原発がダメだというプロパガンダ以降、図らずも(?)エコ・マーケットは膨張の一途を辿っている。
反原発論者の極論に「どうせ電力消費の大半は東京なんだから、都心のど真ん中に炉心でも何でももっていけばいい」というのがある。
そして、都会人はエコに疎い、だのといった議論になりがちである。農村はそもそもエコなのだと。
しかし、である。東京の人口は、恐らく今では、そのほとんどが田舎者で占められているはずだ。
ドーナツ化の話をしなくても、東京近郊から来る人間の方が、公共サービスをより頻繁に享受していることになる。
どれほど田舎者にエコ意識の高さが見られるかは疑問が残るというもので、一昔前の生活サイクルの話と今のエコの話を混同してはまずい。

昔の農民はエコを相手にしているのであっても、それを儲けにはつなげなかった。
今やエコとはマーケット商品であり、これで商人は財を築くのである。
そこで崇高な理念が掲げられていようとも、それは商人的理念に過ぎず、競争相手も含めた誰もが幸せになるという題目はあり得ない。
エコバッグも然り。

さっそく、プチブルを相手に小銭を稼ごうという人間がオークションという魚河岸でこのエコバッグをさばいている。
9000円程度の値が付いていたが、果たしてあんなロゴの入ったただの鞄を誰が買うのだろうか。

"I'm not a plastic bag."

自然を散々搾取してからに、そのあとはまるで人ごとのように「エコ」である。
その最たる者が自動車メーカーだが、こんな車は売れんだろうなぁ。

I'm not a plastic car, but just drink petronium.

2007/08/20

安全を食わば毒まで


Free China, or China free?

食品安全という見地からか、最近よくテレビでは中国製品を家庭から一掃するとどうなるか、つまり、生きていけるのかという実験をしている。単純な疑問だが、これを中国本国でやってみたらどうなるのか。
無論、生きていけないだろう。
なぜなら、China freeなどは彼らにはあり得ないことだからだ。

ただ、Free Chinaはどうだろうか。つまり、彼ら中国人を低賃金で働かしている外国企業、そしてそれと結託している中国官僚機構から解放するとどうなるか。
これも生きていけないことに変わりはない。

したがって、最初の問い、Free China, or China free?とは、愚問であり、非現実的な問いだということになる。

戦後経ってからのの日本製品もやはり同じく、安物のすぐ壊れるB級品と言われていたわけだが、海外で物を作れなければ、日本人は恐らく不当に高額なものを買わされていたことだろう。中国サマサマなのに、まるで人ごとのような報道が多い。

Made in Occupying Japan

2007/08/14

L'autre bout du monde virtuel N2「自由の館へ」ようこそ


                        緑=自由/黄=そこそこ自由/藍=不自由

L'autre bout du monde virtuel N2

非政府系非営利団体にも色々と毛色がある。

例えば、旧ソ連地域の、しかも地政学的戦略拠点と言える地域で活動するアメリカ系団体「自由の家」。
1941年にルーズベルトの肝いりで創設された非営利シンクタンクだが、その主な支援元は合衆国政府。
したがって、その外交政策には親近性が極めて高い。
その幹事を務めるピーター・アッカーマンはスティーヴ・ヨーク監督の「Bringing down a dictator」の制作にも手を貸しているが、
このドキュメンタリーは各国の学生運動家に見せるためのプロパガンダ用に現在も使用されている政治映画(この模様はフランス人ジャーナリスト、マノン・ロワゾManon Loizeauのドキュメンタリーで確認できる)。

ちなみに、歴とした反ナチ・反共団体でありながら、民族分離の巨壁を立てるイスラエルに対するその年次評定は「ランク1」(=自由な国)。このような怪しい資料が議会などで利用されるのを見て、非政府・非営利という言葉に違和感のない者は恐らくいないだろう。

そのミッションは次のように宣言されている:
「「フリーダム・ハウス」とは、世界における自由の拡大を支援する独立系非政府団体である。自由が可能であるのは唯一、政府がその自国民に対して責任を負う民主的政治システムにおいて、法の支配が広く行き渡り、表現・連帯・信仰の自由、さらにはマイノリティや女性の権利が保障される場合においてである。
自由は最終的に、率先して事に当たる勇敢な男性・女性の行動にかかっている。われわれは非暴力的な市民のイニシアティヴを、自由が否定されていたり、あるいは脅威にさらされている社会において支援し、すべての人々が自由である権利を脅かそうとする思想や勢力に反対する。フリーダム・ハウスは、分析・擁護・さらには行動することを通じた自由・民主主義・法の支配のための触媒として機能するところのものである。」("Mission statement")


http://www.freedomhouse.org/template.cfm?page=1

2007/08/11

プリゴフに関する誤報

共同通信社が伝えたプリゴフの死に関する誤報。

前衛パフォーマーで詩人でもあったプリゴフが先日亡くなった。
1940年生まれの彼は来日もしたことのある人物で、本国では教え子もいる。
ただ、その彼の評判を鵜呑みにするのは、あちらの事情に疎いか、贔屓目であるからだろうか。

パフォーマンス、ハプニングというものにとって、個人の死は最大のパフォーマンス、
つまり、それが本来創作し得ないものであるが故の絶頂であるとさえ私は思っている。
共同通信は何故か、その絶頂について述べてもいなければ、誤って彼が「10日前から入院していた」
(そしてそこで死亡した)と報じているが、この記事は裏を取っていない。
彼は一人で何もせずに病院で亡くなったのではない。
教え子たちのグループ「戦争」と共にその日は、ヴェルナツキー通りにあるモスクワ大学大学寮の22階までタンスの中に入ったまま
昇り、そこで猥雑詩を絶叫するパフォーマンスが行われるはずであった。
しかし、その22階に上がっている最中、タンスの中で持病の発作が起こったのである。

パフォーマーにとってはこの最期が報じられないのは、遺憾であったに違いない。

ちなみに、彼の葬儀費用に4000ドルを集めるチャリティをアントン・ノーシクがブログサイト「ライヴ・ジャーナル」で始めたのだが、これが一種のスキャンダルになっている。このチャリティ自体がではなく、これを不可解なキャンペーン(彼にはロンドンに地所があること、その彼に4000ドルなどは端金だろうということ、そもそもそんな人間に葬儀代を集めるのは寧ろ非礼であるということ)だと取り上げた作家ガルコフスキーが、あるウェブ出版所との契約を突如打ち切られ、それが大きな波紋を広げていることだ。

しかし、これこそがプリゴフ最後のパフォーマンスだったのだと考えれば理解しやすいのだが、生真面目な連中は亡くなった彼の死を悼むことにマジメ過ぎて、プリゴフが誰だったのかを見失っている。

詩人は人間か、作品か。
少なくとも、ただの人間であるとは言い切れない。

2007/08/08

"L'autre bout du monde virtuel" N1


新シリーズ" L'autre bout du monde virtuel"

この世の中には一見しただけではその本体のよく分からぬ「キメラ」的事物が多く存在している。
そのことはネット世界にも反映される。

社団法人 機動隊員等を励ます会
http://www.hagemashi.com/index.html

法人化する意味がどこにあるかは皆さんに考えてもらいたい。
単なる後援会としての存在意義云々ではなく、社団としての法人格を社会に認めてもらう必要がどこにあるのかということを。

Always look on the bright side of death



数年前に「パッション」が世界上映された時は、この「ライフ・オブ・ブライアン」が世界各地で再上映された。
「奇跡の丘」や「パッション」を見てから「LOB」を見る人には、ただの聖書もののパロディにしか見えないだろうが、さにあらず。
再上映の経緯は、冒涜的だということから当時DVD化されていなかったということもあるが、この映画をPythonsはマジに作っていたことが一番重要。

「コメディからは何も新しいものは得られない」とジョン・クリーズが最近語っていた。しかし、われわれが彼らの作るものから得るものは少なくない。少なくとも、彼が「日常を笑っても新しみもなにもない」、つまり「新たな発見に乏しい」というとき、それならば、生全体を笑いの坩堝に叩き入れることで、生の淵を垣間見てやろうという意志を持ち続ける必要があるのだろう、と私は感じる。

だから、鬱になっている暇はない。関係ないわけではないが、朝青龍よ、君は笑えないな。

Always look on the bright side of life

words and music by Eric Idle

Some things in life are bad
They can really make you mad
Other things just make you swear and curse.
When you're chewing on life's gristle
Don't grumble, give a whistle
And this'll help things turn out for the best...

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing.
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps
Just purse your lips and whistle - that's the thing.

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

For life is quite absurd
And death's the final word
You must always face the curtain with a bow.
Forget about your sin - give the audience a grin
Enjoy it - it's your last chance anyhow.

So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath

Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true.
You'll see it's all a show
Keep 'em laughing as you go
Just remember that the last laugh is on you.

And always look on the bright side of life...
Always look on the right side of life...
(Come on guys, cheer up!)
Always look on the bright side of life...
Always look on the bright side of life...
(Worse things happen at sea, you know.)
Always look on the bright side of life...
(I mean - what have you got to lose?)
(You know, you come from nothing - you're going back to nothing.
What have you lost? Nothing!)
Always look on the right side of life...

2007/08/05

押し問答とは公案にあらずして、公安の謂なり。Aum...



Jay, Guru, Deva,...Aum.
Nothing is gonna change my world.
職務質問は「任意」であるゆえ、何ら警察権力による拘束力も発動されない。
したがって、もしもこれを妄りに振り回す公安を前にした時には、
その姓名を尋ねた上に、職務権限を逸脱している旨を知らしめることわれわれの救われる道なり。
南無。

2007/07/27

ロウソクを垂らされた睾丸に鞭(略して「厚顔無恥」)


私は知らない。
農水省大臣の事務諸費や領収書やレジシートを誰が水増ししたり誤魔化したりしたなんて、当然知らない。
見え透いた嘘を「仕方ない」なんて言って済ませる国民なんて知らない。

明日は選挙日。
そんなこと知らない、なんて言う奴なんて知らない。

ニッポン、蛮罪!

日本は抑圧国家である。
しかも、陰湿さと愚弄さに満ちている。

仮に、飲酒運転で検挙されたことで、仕事を自粛しなければいけないというのをもっともな話だと思う人間は
立派な日本人である。
だが、同時に、立派な人間だとは言わない。

人前で泣きべそをかいた後で、仕事をキャンセルするというのはどういうことか。
ケジメという言葉もいかがわしい。責任を逃れるための、客観性を欠いた適当な口実である。
それが日本の責任の取り方なのだ。それは何よりも、必要以上の抑圧を避けるための口実であり、
それゆえ、客観性を欠いているのだ。

織田君が泣きながら弁明をしていた。毒でももられるのではないかというほどの涙だ。
彼は悪いのだろう。だから、ベソもかいたのだろう。
だが、この抑圧はどこから来るのか。自民党か?民主党か?共産党か?国民新党か?社民党か?(最後のは無さそうだ)

戦前戦後はサーベルか鞭を腰に付けた教師が教室を我が物顔で闊歩していた。
この種の抑圧は消えた、のだろう。
しかし、この権力というのはいかにも巧妙であり続ける。
どこに身を隠したのか、と思うほどに至るところに機動し続けている。
人が人前で泣くとはどういうことか。
また、それをメディアで流すとはどういう事か。
そして、その現場を前にして、カメラをパシャパシャする輩はどういった奴らか。

考えるべきことが多すぎる、この惜しむジャパンの時代にも。

ニッポン、蛮罪!

2007/07/23

Contra personas Micropterorum

人柄、つまり、言い換えれば人格を攻撃することが政治闘争の合理的な手段であるかどうかは知らない。しかし、政治家の人格攻撃によってダメージを与え得るということ自体は紛れもない事実である。

そもそも、政治家に人格者が選ばれるということは絶対条件などではなかった。土地を持ち、つまり、自らの支配する領土を有する者たちが政治に手を染めるのが習いであったのだ。しかも、そこにエリート学歴などが物を言う余地などはなかったのであり、これが一般化するのは議会制イギリスにおいても19世紀後半のことである。それゆえ、政治家業とはそもそも金策に困る者がなる職種ではなく、支配の術に長けた者がなる貴族的な職業である。
それが、民主社会と呼ばれる時代には貴族的職業は流行らなくなる。が、政治家業が無くなるわけでは無論なく、支配の術だけでは人を酔わすことは出来なくなる。そこに“人格”というマジカル・ワードが登場する。この時代、民衆からすれば貴族的であること自体が一つの抑圧のシンボルであり得、しかも、それを払拭するためには政治家は常に”有徳”を口にせねばならないが、政治家に人格があったとて、金がなければどうなるか。その答えは誰もが知っていよう。五万円以下の領収書をゴマンと切って、政治家を支えるという半ば裏社会との密約だ。この日本の政治がもつ透明度、これはせいぜい、外来種ブラックバスに湖沼を荒らされた琵琶湖のそれに過ぎない。こうなると、現今の政治家はブラックバスに似はじめ、人格など攻撃する意味すらなくなってくる。ブラックバスのエサ代こそは、かの「花代」が象徴しているではないか。政治家に人格を認めるか、それともブラックバスに人格を認めるか、さあさ、お立ち会い。

2007/07/19

青銅時代

”産経”テレビが昨日、何故か未だに「ゴールデンタイム」と呼ばれ続けている時間帯のバラエティ低迷を分析した。

その結果はすでにネット上でも知られているところだが、テレビに飽き飽きしている人間がこの世に五万といることがある程度伺える。

無論、ネットの言論が世論すべてを反映しているわけではないし、かなりの偏向もある。しかし、だ。どうやら、このテレビの白痴化は社会の白痴化と連動していることはまず間違いないし、言語能力の低下も直結していることを考えれば、日本だけが抱える危惧でもなさそうだ。

私がよく見るロシア系テレビでは、いわゆる「セレブ」がボクシングをする見せ物がある。流行っているのかどうかは不明だが、第一チャンネルというプーチン直下の局だ。セレブといっても、少し日本とは毛色が違うので、「インテリ」と言い換えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、立場を入れ替えれば、相撲取りが国際情勢を論じたり、原子力発電の原理を解説するような、まるで無謀な番組を見せられているようなものである。

日本の事情は多少違うとはいえ、弁護士がマラソンをするところを「愛」のオブラートに包んで見せられたのを思い出せば、さほど違いはないようだ。

専ら、テレビはビデオ観賞用にすればよいのであり、そう考えれば、もう以前から家庭娯楽専用へと活路を見出していたのだ。
そもそも、テレビは勝手にやっているわけで、その影響を語るならば別だが、その勝手にやっているものを「ああしろ、こおしろ」と言ってみても意味がないのだ。しかも、そこにはPR(パブリックリレーションズ)が屋台骨を支えている。もし、テレビ批判をするのであれば、先ずもってこのPRを通じて資本を膨らませようとしている企業体に矢を向けるのがコモンセンスであるべきだろう。そしてさらには、「くだらない」と言いながらも不必要な消費をまんまと煽られている視聴者自らが自嘲的であることも必要だろう。

テレビの「窓」に目をやることに飽きた連中は、ネットの「穴」でデバガメ精神を養う。その連中にゴールデンなど興味はない。
好きな時に好きなだけ覗き見出来るネットだからこそ、YouTubeもグーグルアースも成立可能なのだ。

軍事衛星風デバガメ「ブロンズタイム」の到来である。ここに喜びは無論ない...

2007/07/07

ボは亡国のボ



善意を狩ることをグッドウィル・ハンティングと呼ぼう。
あの、昔話題になった映画の題名と同じだが、無関係だ。
派遣労働からのピンハネに対して、日雇い労働からのピンハネは約4・5倍以上に上る。
単純に、日雇いの善意狩りから得られる不労アガリ(風呂上がり)は、4割5割である。
これを肥やしにグッドウィルは善意を狩りつづける。

無論、これは労働基準法に準拠したやり方であるので、彼らは飽くまでも法によって裁かれることはない。
しかし、誰が見ても「グッドウィル・ハンティング」である。つまり、足元を見ている。
どんなピンハネがこの世に跋扈しているのか、丁稚奉公でもあるまいし。

概して、今の行政制度改革というものがいかに生温いかをよく知れと言わんばかりに、官僚機構の奇行ぶりは度が過ぎている。
一層のこと、ヴォランティア組織に改組してしまう方がグッドウィリングな人たちには適っている。
公務員には釜出しの手伝いを本業にしてもらい、それに対して給与を出す。
一方、釜出しの食事に与る人たちが公務員の仕事をヴォランティアで行う。それに対してはネットカフェを無料開放する。
今の理想的な国家像がこれだと訝る人も多かろうが、しかし、そこまでこの世界は疲弊している。
公僕は亡国の謂なり

2007/07/02

日系余生



酷な話をしよう。

先ず、私は原爆体験者でもなければ、好戦論者でもない。
そして、自民党支持者でもなければ、共産・社会主義者でもなければ、さらに、民主党支持者でもない。

政党政治家というのは一個の人格であることを越えて、一つの鋳型に塡められることを甘んじる故に政党政治家と呼ばれる。
これは一介の聖職者が時流に任せて遵守すべき教義を勝手に解釈できないのと同じで、それがイヤならば政党を離脱するしかない。
そして、彼を選ぶのは国民であるが、彼が彼自身の言葉を選ぶのは国民ではない。その意味で「しょうがない」というのは勝手な話ではあるが、「しょうがない」。となると、このしょうがない政治家をどうするかはわれわれの責任である。お咎めを受けることが分かっているような発言をすること自体、そこにその理由を探す必要はあろうが、人格攻撃の意味は皆無であろう。なぜなら、彼は「しょうがない」政治家なのだから。そして、その彼をまたぞろ支援するようなことになるとすれば、これまた「しょうがない」選挙民なのであろう。となると、誰が悪いのか。人格の崩壊しつつある政治家を堰き止めようとする一部の選挙愚民か、はたまた、人格を専ら必要とせず、一部の民の愚弄さを利用する政治家か。

正直な話、私は離党する党のない身分であり、日本がこのままでありつづけるのだとすれば、日本を離れるべきなのかも知れない。日本国憲法の素晴らしいところ、それは、誰も日本を離れる者を引き留めることは出来ないことを保証していることだ。

いっそ、ペルーにでも出稼ぎに行って、政治家にでもなろうかと思う。

2007/06/28

法ホウほう




ビリー隊長が偽善者であることは誰も否定できないはずだ。
なぜなら、もし自分が本当に良いと思うものならば、それを無償で人に分けようとするのが善人の筋だからだ。
だから、偽善者なのだ。しかし、彼が「悪人」といっているわけではない。そこは間違ってはいけない。
善人と偽善者の違いは分かるが、悪人と偽善者は混同されやすい。

偽善者は世に五万といる。例えば政治家たちだ。だが、彼らを悪人と切り捨てることは出来ない。
なぜなら、候補者という名目で選ばれた連中であり、われわれ選挙民は自らの善意を彼らに引きずらせているからだ。
では、本当の悪人とは誰のことか。

例えば、法の裁きの下で有罪になる者などは悪人だろう。しかし、冤罪の確定される前の人についてはその限りではない。
この三日間行われてきた光市母子殺害事件の裁判における弁護人をその政治的活動への傾倒を理由に断罪する声があるが、立法の現場における被告側弁護士による政治活動をもってその根拠としている評論家連中、さらにはそれに煽られるマスコミの挙動が見られるが、立法の現場で政治的活動が見られたことがないと考えることほど、その立法に対する稚拙な態度はない。
立法に政治がかかわらないとする根拠は、おそらくは三権分立の原則であろう。

しかし、そのような原則が政治という超越的だからこそ生臭い”生物”を前に、果たして機能すると考えることはどれほどわれわれの救いになるのか。死刑を許す許さぬの問題は別である。しかし、仏教徒の法務大臣がその座に鎮座しているあいだにどれほどの死刑執行がなされたか。ほとんど皆無に等しい。ということは、そこに政治がすでに介在しているということである。

つまり、法律を超然たるものとみなすことは許されないし、許してはいけない。ということは、そこに政治が非政治的な装いで常に自らのレパートリーを演じるのが常なのだ。したがって、そのような現場においては政治的な手段をもって闘わねばならない。さもないと、立法の仮面の政治がその自らの姿全てを立法化するだろう。政治は立法となろう。立法に頼れない現場で、立法に対して法で対抗するのは自らの無効力を晒すことにしかならない。よって、裁判法廷中での政治運動を許し、自らもその中で政治化することこそが最短距離であろう。弁護士側への人格攻撃など無用なのだ。法に人格など知りようがないのだから。

2007/06/23

誤認囃子


ヤフーのトップページには次のようなPRが並んでいる。

流行ビキニで視線くぎ付け
夏はハワイアンジュエリーで
キャミワンピースで涼しげに
足下かわいいビーチサンダル
サングラスでいい女度アップ
自宅で手軽にツルツルお肌
イオンスチーマーで美しく
あなたにもできる、ネイル術
夜は浴衣で雰囲気チェンジ
夏の恋、必勝お泊まりデート


ほほぉー、である。
ソフトバンクは「泥濘の堤防」とでも呼ぶべきか。

そもそも「PR」とは、文字通り”パブリック・リレーションズ”のことである"はずだ"。
しかれば、日本でもゲッペルス・システム満載の大政翼賛的リレーションがこのよなPR企業によって作られている。
この手の公共の「リレーションズ」が、捏造とは言わないが、それでも、虚構間近に近いものとして作られていることは間違いない。

誰の口から上に列挙したような娑婆娑婆で禍々しい言葉が吐き出されるのか。
例えば、「クールビズ」に絡めたエゴイスティックなエコ広告(というか、エコロジカルなエゴ広告)も同列だ。
今更、誰が電気の消し忘れを広告にするセンスを持ち合わせていようか。
こんなこと、ダメオヤジが鬼婆にケツを捻られたすえに、渋々自分のこれまたダメ息子に良い格好を見せてるようなものだ。

PR会社のことを日本では何故か”広告代理店”と呼ぶ習わしがあるが、しかし、何の代理なのか。
ここで川柳一句、

「内裏様、誰のダイリと問われれば、肝入り腑抜けの代理様」

専らのところ、平日はエコを訴えて、憔悴の休日はパチンコに精を出す吾人の代理なのだろう。
やっぱり、エゴロジーである。

2007/06/22

無差別撤廃




将来、男女均等社会というか、それ以上に、男女無差別社会が訪れるのもそう遠くない、と想像することに大して喜びも悲しみも感じないにせよ、物事というか、モノを混同するのが嫌いという人は多いし、それを見ていて違和感を抱くことも少なくない。例えば、豚肉と牛肉をミンスして混ぜ合わせたものを「合い挽き」といい、また、男と女のデートも発音上は同じく「逢い引き」という。一つになることが分かっている分には違和感はない。しかし、この二つを引き合わせる訳にはいかないマッチョの世界では「男」は「男」であって、「牛」は「牛」である。同じ餌を食べていても、豚小屋の臭いは牛小屋の臭いとは違うし、その肉の味が違うのも確かだろう。グルマンの跋扈する世の中に、どれだけの潜在的味覚障害者がいるかは知るよしもないが、ミンスして逢い引きさせた肉弾二銃士を誰が顧みるのかには興味ある。コープはさっそくこの単性肉を装った「逢い引き銃士たち」を商品棚から撤去。消費者という圧力こそがバネの生協にとっては、当然の措置だ。警察も黙ってはいない。ただ、これは不正競争を防止し、嘘をついてはならぬというお題目の上で動いている。

しかし、そもそも、動物には言葉が具わっていない。自分が牛だの豚だのと自己申請することも出来なければ、生物学上牛でも豚でも、人の見た目が牛豚であれば、牛豚と呼ばれてしまう。これをもって、人間は冷酷だとは言わないが、男女の性差にしても同じことが適用されるのをわれわれは知っているし、未だに「性同一性障害」というおぞましい医学用語をレッテルに持つ人が「社会的」に抵抗する姿も目にする。彼らへの眼差しは、この「逢い引き銃士」として偽装ミンチを駆逐する者たちの視線と交差しているとも見える。全くもって牽強付会だが、今度の事件を逆に同性の「逢い引き」励行だととれば、少しは気分は晴れるのか。

2007/06/19

ドクトル・メフィスト


ほとんど20年ぶりに歯医者の門を叩く。
この世から殲滅されても少しも惜しくない歯科医院が
家の近所で最近増殖を繰り返し、ずいぶん前から僕の大事な「親知らず」を狙っていた。
初診の今日は、問診ではっきりこう答えてやったー「歯医者なんか絶滅すればいいんですよねぇ〜」。
すると、奥には僕とさほど年の変わらない「先生」の影がチラッと見えたが、その時彼が苦笑いしていたかどうかは、あの不敵な白マスクに隠れて分からなかった。

以前、呼吸不全でバスを飛び降り、タクシーに乗って近くの総合病院に向かったことがあった。
ただ、その時は運悪く、急患を診てくれる医師がおらずに、たらい回しにされた。
別の病院を紹介してもらった都合、そちらに向かわざるを得なくなり、やむなくまたタクシーに飛び乗る。
でも、気持ちは飛び乗るという言葉とはまったく違い、実際のところは、ひどく懐具合が心許なかったため、呼吸のことなどすっかり忘れ、タクシー代と診療代のことで頭が一杯に。
それでも、結局は「まな板の鯉」は鯉である。というより、懐具合からすれば、せいぜい僕などフナ程度である。
いつもこういう状況が僕を取り巻くと、自分のことを「フナ」だなんだといって卑下しながら、死に神さんに睨まれないようにしているのだ。
いくら喋った所で、捲し立てた所で、看護婦を笑わせた所で、何にも変わらないんだが...
つまり、不安な時は饒舌になるのが人の性なのだろう。今日も同じことを口走っていた。

ちなみに、今日は偶然にもドラマティックな舞台設定だった。
「ファウスト」の第五幕で、これから博士が昇天する直前のところを読んでいたところだった。
勿論、僕にとってメフィストは初対面の歯科医。小さな頃から死ぬほど恐れていたデンティスト=メフィスト。
そして、数十分後。右奥歯の親知らずか子知らずかの歯の抜歯準備開始。
このあたりになるともう現実感が圧倒的で、「ファウスト」がオーヴァーラップすることもなかったが、
それでも、歯の根っこだけは違った。
すんなりと抜けるのかと思いきや、それはまるで性懲りもない魂のように、肉を?んで放そうとしない。
その根っこは文字通り、「豚の蹄」のように三叉に分かれ、歯肉に食い込み、しがみついていたのである。
ファウスト博士には天使たち・マリアたちがついてくれてたが、僕についているのはせいぜい国民健康保険。

ファウストも「3割負担」じゃ昇天するまい。