2005/10/11

チュッチェフ "Silentum!"(1829)第二聯


黙せよ、隠れよ、秘せよ
感情も、夢も、自分のものはー
魂の淵で
昇り沈ませておけばよい
語らぬ夜の星たちのようにー
それを眺めてみたまえ、そして黙るがいい

いかに心根におのれを語らせるというのか
他人に何が分かるというのか
その者に分かるだろうか、何が私の糧かなど
考えは口に出したら偽りだ。
泉を怒らし、掻き乱せー
その泉を糧にせよ、そして黙るがいい

おのれのうちに生きることだけ身に付けよー
すれば汝の魂にあるすべては
秘められた魔術の思考の世界。
その思考は外の喧噪に掻き消され、
白昼の光に追い散らされるー
その思考の歌に耳を当てよ、そして黙れ!

Welcome to A.T.Blazhenny! + ソクーロフ『太陽』


有閑の紳士淑女のみなさん

たぶん、順番からすればここで自己紹介なのだろうけど、そんなことには興味のない向きもあるだろうから、いきなり徒然書き。

...何を書こうかと色々思いをめぐらせたところ、数ヶ月前に観たソクーロフの「太陽」がふと脳裏をよぎった。別に何の必然性もないので、ただの感想文なんだけど、自粛大国日本ではまだ映画館上映されていない映画のお話...

結構コアなファンが日本には多いソクーロフ監督。その彼の二〇世紀指導者シリーズ三部作の最後を飾ることになった「太陽」が今年の夏前にDVD化され、ロシア系ネットサイトで販売開始。熱狂的なファンには悪いんだけど、実は監督本人に数年前、広島の鷺島というところで一度会ったことがある。これは、当時彼がカンヌに出品したばかりの「モレク」の上映ビデオの字幕を頼まれたことがきっかけで、会うことになったというもの。季節はたぶん、十月か十一月だったと思う。奄美で撮影を終えた彼はそれに合わせて島にやってきたんだけど、奄美の気候が暖かかったためか、夜風がすっかり冷たくなっていた鷺島の屋外上映会(この時は「モレク」の上映じゃなかった)に半袖姿の、しかも疲れ切った体を押しての登場だった。その時、片足が少し不自由であることを初めて知ったことを記憶している。

上に、「自粛」という言葉をつい口走ったんだけれど、これはソクーロフ監督に無関係の言葉じゃない。彼の詳しい経歴は省くけど、プラトーノフ原作の短編を選んで撮った卒業作品が「反ソヴィエト的」というレッテルを貼られて、危うく反古にされそうになる(これを断固として護り通したのがタルコフスキー)。「反革命的」なんて言うと、あまりに大げさな響きがするけど、要は「わからない」ということだ。ただ、原作を読む限り、ストーリーだけを取れば少しもわかりにくいところはない。どこが分かりにくいかを説明する前に、ストーリーだけ押さえておこう。

【大祖国戦争=第二次大戦から帰還した主人公は肉親を全て失った幼なじみの女子医学生と結婚。しばらく何事もなく時は過ぎたが、その間に精神的な荒廃を深めつつあった彼は家から忽然と姿を消し、浮浪者となって流れ辿り着いた市場で自らの居場所を見つけ、犬のように扱き使われる生活に奇妙な充実を感じてしまう。やがて、そこに唯一の肉親である父親がその市場で偶然彼を見つけ、家に連れて帰る。失踪した彼を捜し回っていた妻が春の川の薄氷を踏み違えて危うく溺れ死ぬところだったことを知らされ、再び市場へ戻ることはなかった。おしまい】

ソクーロフが狙いを定めたのはストーリーではなかった。彼の関心は「荒廃」、まあ言い換えれば、ストーリーが終わるということにあった。プラトーノフの作品はいわゆる「公式」のソヴィエト文学ではなかったから、その辺に不評を買った事情もあるんだけれど、それよりも、本来華々しくあるべき大祖国戦争の英雄的勝利がこのテーマ選択(「荒廃」)の陰に隠れてしまった。それに、荒廃過程の描写ー実はこれはプラトーノフの文学的オプセッションでもあったんだけれどーの過程が映像的には後半部分になると甚だ先鋭化してしまい、ほとんどストーリー(つまり、ソヴィエト的文脈で言えば、闘争の歴史)を塗りつぶしてしまう。だから、「分かりにくい」あるいは「わからない」という表現はソヴィエト政権からすればもっぱら政治的な問題ということになるのだろうけど、監督からすればむしろ哲学的な視点から理解されるべき問題だったというべきなのかもしれない。

ところで、初めの方に触れた三部作というのはレーニン、ヒトラー、ヒロヒトという三人の指導者をそれぞれ扱ったものだけど、そのどれをとっても「終わり」をめぐる情景の形像だ。指導者でありながら、そこに描かれるレーニンはすでに自らの身体のコントロールすらもてあます病人であるし、ヒトラーは自殺する前に立てこもった山荘でのヒトラーである。そして、ソクーロフが選んだもう一人の指導者は大日本帝国が無条件降伏する直前の、人間になる意を決する現人神である。人間になろうとする神とは、つまり言い換えると、神が神であることに耐えられなくなるということ、神であることを止めるということだし、しかも帝の国にとっても、無条件降伏に屈するとは国体を護持しきれないという意味で、それは死を意味する。

まあ、あまりもありきたりなことばかり書いてしまったけど、「太陽」に関して危惧されているスキャンダラスなところを挙げるとすれば、ほんの数箇所だと思う。

1.悪夢にうなされて涙を流す「神」
2.家族写真にキスをする「神」
3.神であることに耐えられなくなる「神」

「太陽」の話をするつもりだったのに、今回はそのお膳立てだけになってしまった感じ。次はもう少し、焦点を絞って書くことにしましょ。