2006/10/28

旧世界胃酸


今日は久し振りに書いてみる。
友人たちからの手紙への返答を差し置いても、だ。
もし、最近手紙を書いてくれた人がこれを読んでいるならば、申し訳ないという他ない。
いずれ出すつもりなのでご寛恕。

さて、今日は「遺産」について一言。
それには「世界遺産」が”もって来い”である。
このような新語を誰が考えたかははっきりしている。
旅行業者とグルになった学者たちか、学者たちとグルになった旅行業者のいずれかだ。
つまり、彼らだ。
私は以前からこの「遺産登録」を「唾付け行為」と呼んでいる。
といっても、こんなことをまともに人に話したことはない。
しかし、例えば、バーミヤン石窟がタリバンに爆破される映像を見て、どれだけの人が「遺産」のことに考えをめぐらせたか。
仏教の遺跡は他の遺跡とは格が違う。
というのも、仏教徒にとってみれば、そこには本来世俗的執着があってはならないはずで、あの石窟が崩れて無くなっても、諸行無常であるかぎり、仏教徒には痛くもかゆくもないはずだからだ。
こういうと、他の宗教はどうかという話になるが、これは、塵芥になってもならなくてもこの世での価値に頓着しないのが仏教だ、という前提でのお話し。だから、あれを残すことに血眼になるのは旅行業者か学者たちくらいである。
もし、衆生のうちから「残してくれ」という声が上がるのだとすれば、それは無論、潜在的観光客に相違ない。

だが、個人的には奈良の仏閣が好きでたまらない。だから、仏教徒にはなれない。
幼い頃、遠足でもないのに一時間の電車を乗り継いで、画板と画用紙片手に独りで絵を描きに行っていた。
感傷ではなく、あれはとにかく美しいのだ。

今残る遺跡や町を遺産に残すのに、人は死んでいく。
「世界遺産」は、芸術学的見地からして非常に正当な、そして、観光経済的見地からして至って効率的な運動である。

関係ない話だが、この夏、私はペテルブルクに二日間滞在した。
覚えていることと言えば、無論遺産のことではなく、十五年ぶりに再会した友人と中華料理店で大酒を食らい、酩酊状態で、彼が社長を務める日本文学関連の出版社へ彼の奥さんに会いに行き、その後、あるいはその前であったかはもう定かではないが、新調したばかりのズボンをゲロでドロンドロンにしたこと。そして、一緒に同伴していた女の子には愛想を尽かされたこと。
そこに私の見たのは、活発に消化を助けてくれた後の胃酸ばかり。
こっちの方がよほど珍しいので、今度観光用に携帯するのなら胃カメラだろうか。

ちなみに、私がその町で見たのは、空き瓶を拾い集める老女たちばかり。
これは無論、感傷のかさぶたにすぎない。

2006/10/01

人は給食のために生きるにあらず


例えば、実存をめぐる不条理(自分の生の意味を推し量ろうとして、結局死の意味をもそれに対置させねばならず、結局は問いそのものが変質してしまい、常に袋小路に陥るしかない「生の問いかけ」がもつ条理)を、「生んでくれと頼んだ覚えはない」という格好の非論理をもって親にすごむ子供は後を絶たず、その生命力はゴキブリのそれに等しい。自らの実存を楯にする現代人だが、子供でいるうちはまだその幼稚な論理を玩具にして遊んではいられるが、成人して烏色の硬い羽を生やしてしまうと、自活のために餌を求めて地を這い回らねばならない。だから、普通は早々に上のような幼虫的論理は卒業するものである。

今回は別段、生命の尊さを論じようと思って書いているのではない。ある問題の実態について知りたいのだ。
それは、給食代を払わないガーディアンたちのことだ。
この報道の前面には「支払い拒否」ばかりが出ていて、果たして拒否しているならば、その子息たちに弁当を持たせているのかどうか....

いずれにせよ、現時点ではこれだけで言語道断とは言わないでおくが、「拒否」の「論理」は多分、「NHK受信料」とかの問題と同じなのだろう。

「水道を引いてくれと頼んだ覚えはない」とは誰も言わない。
しかし、支払いを拒否し、その肩代わりを教師のポケットマネーに頼るようなガーディアンをもつ子供は、これをどう見ているのだろう? 
きっと同じような、でも少し視線を変えた論理が飛び出すはずだー「日の丸弁当ばっか作ってくれって言った覚えはない」

2006/09/29

パツキン


金髪議員...、どうだっていい話、ではある。
下品だが、日本人は金髪に弱い。それと、ピンク色にも弱い。
色町に行けば、この二色がオンパレードなのは理由がない訳じゃない。
この色にはどうしても燃えてしまうのである。
しかし、国会ではいけないということで、ノンという。
だが、黄金というのは富の象徴、つまり、豊かさの証で、何も最初から悪い色ではない。
それとも、駄目だって理由が、子供が真似するってことなのだろうか?
もし、そうだ、というのなら大間違いである。
代議士の真似をすることのほうが、今の世間では人徳に反していることで、
そんな連中の真似をしてるといって、精々仲間からからかわれるのがオチというもの。
したがって、中高生の茶髪・金髪防止策として、是非とも代議士連には率先して毛を虹色のブリーチに染めてもらわねばならない。

どうせ色に拘るのなら、ついでに国連平和維持軍は玉虫色にしてみよう。
ちなみに、自動小銃の配色はピンクでお願い。

2006/09/28

「向うが先に悪事を仕掛けてきたことゆえ...」(メネラーオス)


ささ、皆さん集合、本日より首相就任会見の揚げ足取りの始まり。

いかにも、御仁、先生、諸君、紳士淑女に皆の衆、「思います」というのは世の常、人の常ではござりませぬか。
自信の在る無きかかわらず、「思います」というのであれば、いやそれまでのこと。その御方はそう「思っている」のですから。
「しっかり」という物言いも分かってあげぬとは、それはいかにも不憫というもの。
精一杯の言葉ゆえ、美し・いつくしき「シカリ」との言の葉ゆえ、慈愛をもて見守ろうではござりませぬか。
それでも駄目だというのであらば、実験をしてみても良かろうもの。

すべての「思います」を「存じます」と入れ替え、はたまた、あんこたぷりの「御座候」でも構わない。
あるいは、ペダンチークな調子に替えて、「...だ」「...ならない」「...にしくはなし」「...あれかし」としてもよい。
より奇天烈さがお好みとあれば、「ぶら下がり」の時、画面に毎回映る首相用に「鼻毛・鉢巻き・腹巻き・ステテコ」半透明スクリーンをかぶせて、語尾には「...ナァのだ」「...でイーイのだ」という声を流してみる。そして「シンゾウに毛が生えた」という1秒ごとに点滅する効果的テロップ。

きっとこれで、にわか保守派は震え上がること間違いなしナァーのだ。

2006/09/27

禍々しい日本語


「美しい日本語」促進計画案に関する追記
ー「日本語」科目のビデオ教材には駆除・殲滅すべき禍々しい似而非日本語のサンプルとして「子亀」アンド「親亀」の大阪弁。これは喧嘩のときも、決して相手に殴りかかることなく、願わくば「いつくしき」ヤマテコトバで相手を痛罵するためである。

エスティック・モノノフ


近代教育における「非国語」が国家戦略上位置づけられるのはおそらく19世紀後半あたりのことで、いわゆるそれまでの伝統的「古典教養」がもつ学問的無用性から脱却して、いかにも合理的な視点から導入されることになるのがヨーロッパ近代語である。外国語教育については、本来それが近代国家の産物であるということと国家経済の効率性を結びつけずに考えることは出来ない。例えば、外国語オタクというのはどの時代にも存在するが、彼らが非効率な存在種、つまり生産性に乏しい人種であることから考えても分かるとおり、金持ちであるためしはおよそなく、国家にとっては多分にその存在さえも眼中にはないものである。いかにも、国家にとって国語も含めていかなる言語なども本来は道具の一つに過ぎず、したがって、その普及力とヘゲモニー維持において秀でている言語はとりわけ崇拝されるべき存在なのである。日本語を(そして英語も)まともに喋れない日本人と流ちょうな英語も日本語も話せる日系人とを比べてどちらが道具として使えるかと言えば、当然後者であって、海外において国家を代表する企業が欲しがるのはまさしくそういった道具である。

ところで、「ゆとり教育」ならぬ「さとり教育」という蓮池を出たかと思えば、今度はエスティックブルーのもののふ(Mononoff, Minister of Gaya Sciencia)が新たな具足(=英語必修化)をかなぐり捨ててもよいと言い出した。この政権は美学の祭でもやろうというのだ。あるいは、この先には全世界日本化計画でも推進する気なのだろうか。私が提案したいのは次の点だ。
 ー先ず、国語の古典語教育はこの際止めること。その代わり、「日本語」科目を導入し、作文(表現力・思考力)・リスニング(集中力と忍耐力)・講読(分析力)の三つに下位区分して週10時間の授業を行うこと。こうすれば、どのアジア諸国にも負けない美しい国語を話せるようになる。
 ー当然ながら、ここにはドロップアウトする学生も出るであろうから、その救助策として彼らには、「美しい日本語」を話す東京山の手地域の高級住宅地でホームステイ(事実上の家政婦)を義務づける。「美しい日本」の私たちのためなのだから、決して「箱根より先」に彼らを送り出してはいけない。これは場合によって、ニート対策にも一役買うだろう。
 ー日本国民は五年に一度は「美しい日本語」能力試験を受験すること。不合格者には社会奉仕活動に従事させるか、月給20%分の罰金を科すこと。この収益は年金を賄う財源となり、国庫を潤すことが出来る。

以上

2006/09/26

最後のビールが切れた

この三ヶ月、私は何も書かなかった。何故か。
理由は特にない。だが、今日書くに気になったのは他でもない、
「美しい国」の到来だからだ。

左翼はほどよく国を恨む。と同時に、右翼は国をほどよく誉め殺す。
「両極相通じる」というが、どちらも理性を忘れがちなことをわれわれは忘れていないか。

例えば、中世を論じるに当たってそれを保護しようとするのは、些か現実離れしていることを忘れるなかれ。
また同時に、現代を論じるに当たってそれを非難するのも同じく過去を過ぎた物憂い目で見ていることもお忘れなされるな。

リアルな「ものの見方」はどちらに対しても冷酷である。
中世は、民衆の首根っこを掴まれていなかっただけ自由だ、というのであれば、さもありなん。
だが、そこに見るのはどれも生きるか死ぬかの徒党の群である。The YAKUZA。
誉めるわけにはいかないが、これは伝統ある群像で、決して消えたりしない。

近代になれば、「金、Yokose」と言うのがヤクザなら、「...に金をやれ」というのが組衆(例えば、労働組合、教会)。
多分、ここに違いを見出そうとしないのは、捻くれているだけじゃなくて、正直じゃないからであろう(それとも、愛がない?)。
崇高な気分になるためなら教会・神社があるので行ってみればいい。
金が欲しい奴は、アコギなアコムなど行かず、働けばいい。

美しい国。ああ、美しい国。
生活保護を受けられる、美しい国。
ああ、今日は山口県が誇りでまみれる。

2006/06/12

死よ、踊れ!

今日のどうでもいいニュース
「18センチのタランチュラ」を主婦が捕獲、お手柄である。
この後、私の頭は妄想に支配される。よくあることだ。

娘ー「お父さん、帰ってくるの遅いねぇ」
妻ー「どうせまたどこかで油でも売ってるんでしょ、ちょっと景気がよくなったからって、すぐにこれだから、ほんとにもう...」

ーそして、二日後。寝室の壁の前。
妻ー「あらやだ、こんな所にシミがついてる」
と、その時動き出すシミ。
いや、それはタランチュラ。アンド・ゲット。
娘ー「お父さん、今日も遅いの?」
妻ー「さあ、知らない。昨日も寝てるうちに帰ってきたと思ったら、ゴソゴソいってから何も言わずに会社に行ったみたい」
娘ー「音なんてしたっけ?」
妻ー「したわよ、確か...」

ーさらに三日後。
妻ー「どうしよう、携帯に電話してもつながらない...」
娘ー「昨日も帰ってきた気配ないわよ」
妻ー「...」
妻は先日の壁をじっと見つめている。まさか...

2006/05/17

Ten-hut!!!

マクドナルドでBig Macを注文する奴を見ると、西部警察のグラサン渡哲也を思い出す。
その後、コーンパイプ。
そして、"Made in occupied Japan"
たわいない戦後、
そう、Big Macは未だに食えない。

2006/05/15

ディラン・トーマス「すべてのありとあらゆる」


I
ありとあらゆるすべての乾く世界が迫り上がる、
氷の舞台、硬直の大洋、
すべてが油から、溶岩の生け簀から、迫り出す
春の都市、その操りの華は、
灰燼の町と化する地中で、
火ぐるまに身をまかせてくるりと回る

どういうことなのか、我が肉にして剥き出しの友よ、
海の乳房、腺に彩られた東雲、
蛆の潜り込む、杭入れと休閑期の頭皮は
ありとあらゆるすべての乾く世界は、むくろの恋人よ、
原罪の如く痩せこけてしまった泡吹く髄よ、
肉体のすべてよ、乾きの世界は梃子で持ち上がる

II
懼れるでない、目覚めんとする世界を、我が死すべき者よ、
懼れるでない、味気ない合成血液を、
肋骨金属に収まった心臓もだ
懼れるでない、まぐわいの踏み板や種なしの臼碾きを、
引き金や大鎌、婚礼のナイフを、
恋人が酷い仕打ちに打ち付けてくる火打ち石もだ

我が肉たる男よ、砕かれた顎骨よ、
さあ知るがいい、肉体の獄門と悪徳を
そして、大鎌の目をした放蕩児を捕らえ置く篭のことを
知るがいい、おお我が骨よ、骨付き肉の梃子を、
懼れるでない、声を裏返らせて、
追い詰められた恋人に顔を向けさせるネジのことなど

III
ありとあらゆるすべての乾く世界はまぐわう、
亡霊女は亡霊男とともに、感染病の男は
未だ形知らぬ自らの諸人を宿す子宮とともに
すべてに形を与える胞衣と授乳、
機械仕掛けの肉がする我が肉への愛撫は、
これら世界にある死の円環をなだめつける

華で飾れ、飾れよ、諸人の融解を、
おお、絶頂の光よ、まぐわいし蕾を、
肉のまぼろしに視る焔を飾れ
海より迸る出る油を、
穴と墓石、真鍮の血を、
飾るのだ、飾れ、すべてのありとあらゆるものを

2006/05/10

今日の罪状自由詩「換骨奪胎」


今日、放送局に骨が届いた。
何の骨かは知んねーが、とにかく届いたよ、届いた。
抗議文と一緒に届けば、それは「悪質なイタズラ」。
そうでなくても、やっぱり悪戯。
でも、悪質なほど良質なのが「徒=いたずら」。

アニメの録画がしたかったのだそうな。
それを卓球が邪魔したのだそうな。
それを抗議したいのだそうな。
それには骨が必要だったのだそうな。
本人の骨ではなさそうだ。

さあ、ここで変な響きの四字熟語を思い出せ、思い出そう...
そして、警察と連帯すべきでない放送局の対応を最後に考えよ、考えよう...
...今後、スポーツ中継延長の時には日本国瘋癲アニメ卿何某に
その旨楔形文字にて打電せし骨を送り進ぜようぞ

「ホンシツ ハ カンコツタツタイ ノ ヒ ニテ アシカラス」

2006/05/07

イヴァン・ブーニン「軽い吐息」


墓地には、撒かれてから日の浅い土の上に新参の樫の十字架ががっしりと、重々しく、風化など知らぬ姿で立つ。

四月、どんよりとした日々。だだっ広い郡立墓地の墓碑は遠く離れたところからでも葉をつけぬ木々の間を通して見え、さめざめとした風が十字架の台座に置かれた陶製の花輪を唸らせている。

その十字架はというと、ぷっくりと隆起した陶製の肖像板を嵌め込み、その肖像板には嬉々とした、ぞっとするほど生き生きした眼の、女学生の写真が入っていた。

オーリャ・メシェールスカヤである。

少女時代の彼女は、女学生が着る褐色のコートの群れの中にあっては、これといって目立つ方ではなかった。彼女について語ることがあるとすれば、良家の出で、裕福、それに幸せな女の子たちのうちの一人だということ、優秀だが悪戯好きで、担任の女教師の言うことにはてんでお構いなしだったということぐらいだろうか。その後、彼女は蕾を開き始めるが、数日どころか、数時間単位の成長を見せる。ほっそりとしたウェストに、すらっとした脚の彼女は十四歳にしてすでに、胸そしてあらゆるフォルムが見事に描き出され、その魅力たるやこれまで一度として人間の言葉で言い表されたことのないほどのものであった。十五になる頃の彼女はすでに美少女という評判を得る。一部の友人たちはどれほど念入りに髪を結い、清潔で、控えめな身のこなしに気を配ったことだろうか! なのに、彼女ときたら怖いもの知らずなのだ、手についたインクの汚れも、恥じらいで真っ赤になった顔も、振り乱した髪も、競走で転倒した時に捲り上がる膝のことなどもお構いなしなのだ。いかなる配慮も努力もしない彼女にいつしか訪れたのは、ここ二年間で女学校全体でも彼女を一際目立たせるもの全てだったのだ。それは艶やかさ、堂々さ、軽やかさ、清澄な眼光…誰も舞踏会ではオーリャ・メシェールスカヤみたく踊れなかったし、誰も彼女のようには馬を乗りこなせなかったし、彼女ほど舞踏会でちやほやされる者もいなかったし、それに何故だか分からないが、彼女ほど後輩たちから憧れを抱かれた者はいなかった。いつしか彼女は一端の娘となり、いつしか女学校内での彼女の名声は確固たるものとなったが、そうなるともはや彼女は軽薄で、自分を熱狂するファンなしでは生きられないのではないかとか、男子校生シェンシンが彼女にゾッコンで、彼女もどうやら彼のことが好きらしいが、彼に対する態度があまりにあやふやだったばかりに彼は自殺を図った云々…という流言まで飛び交った。

学生時代最後の冬のこと、オーリャ・メシェールスカヤは女学校内での話題に狂喜せんばかりだった。その冬は雪が多く、太陽に恵まれ、厳寒で、雪に覆われた女学校中庭の高いエゾマツ林の向こう側に早々落ちていく太陽は、明日の日も相変わらずの好天で、光に溢れた冬将軍と太陽を、それにソボール通りの散歩、市立公園での橇遊び、薔薇色に染まる夕べ、音楽会そしてその中ではオーリャ・メシェールスカヤが一番無邪気で幸せに見える、四方八方に滑る橇遊びの人混みを約束していた。そんなある日の長い休憩時間、彼女は講堂内を金切り声ではしゃぎながら追っかけてくる一年生たちから旋風の如く身をかわしていたところ、突如校長からの呼び出しを受けた。走り回っていた足をピタッと止めた彼女は深呼吸を一つだけすると、すでに慣れた女性の素早い身ごなしで髪型を整え、エプロンの両角を肩まで引き寄せると、輝かせた眼で階上へと駆け上がっていった。年の割には若く見えるが、灰を被ったような髪の女校長が編物を手にして書斎机の向こうで静かに腰かけていて、その頭上には皇帝の肖像画が掛かっている。

「ごきげんいかが、マドモワゼル・メシェールスカヤ−」校長は編物から目を上げずにフランス語でこう言った。「残念ですが、わたくしがあなたの素行についてお話しするのにわざわざここに呼び出すのはこれが初めてじゃありませんよねぇ。」

「はい、マダム。」メシェールスカヤは机に歩み寄り、校長の方にじっと目を凝らしたが、顔に別段表情を出さずにこう答えると、彼女だけが出来る軽やかさと優雅さで腰を下ろした。

「私が注意したところであなたは上の空でしょうね、残念ですが、これだけは確信してます。」こう言って校長は糸を引っ張り、ニスのかかった床の上で毛糸の玉がころりと転がると、それに好奇の視線を送ったメシェールスカヤは、またそこで視線を上げた。「二度としません、声を張り上げたり喋ったりいたしません。」彼女はこう言うのだった。

メシェールスカヤには、厳寒なモロースの日に見事なオランダ風ペチカの温もりと書斎机のスズランの爽快さをすっかり吸い込んだこの異常なほど清潔で広々とした校長室が大のお気に入りだった。どこかの煌びやかなホールの真ん中に全身像で描かれた若き皇帝に目を向けてから、乳白色で、丁寧にウェーブをかけた校長の髪の均等な分け目を見ると、何かを待ち受けるかのように押し黙った。

「あなたはもう子供じゃないんです。」意味深長にこういった校長は内心苛々し始めていた。

「はい、マダム。」素っ気なく、ほとんど楽しんでいるかのようにメシェールスカヤは応えた。

「といっても、大人というわけでもないんです。」校長はさらに意味深長にこう言うと、そのくすんでいた顔はほんのりと赤みを帯び始めた。「第一、その髪型はどういう事です? それは大人の女性がする髪型です!」

「マダム、私の髪質が良いのは私の責任ではありませんわ。」メシェールスカヤはこう答えると、きれいに整った自分の頭を両の手で危うく触れそうになった。

「なんとまあ、あなたは悪くないと言うんですか!」校長は言った。「あなたはその髪型に責任もなければ、その高価な櫛にも責任はないんですね、一足二十ルーブルもするパンプスでご両親に散財させていたとしても! でも、もう一度言いますが、あなたはまだ自分が一介のの女学生に過ぎないのだということすっかり見落としているのですよ…」

この時、メシェールスカヤは率直さを失わず、怯むこともなく突然、厳めしく校長の言葉を遮った。

「お言葉ですが、マダム、それは誤解かと思います。私は女です。この責任は誰にあるかご存知ですか? うちの父の友人で隣人、つまり、校長先生のご兄弟でもあるアレクセイ・ミハイロヴィッチ・マリューチンです。あれは去年の夏、田舎に行った時のこと…」

この会話の一ヶ月後、オーリャ・メシェールスカヤが属していた社会にはこれぽっちも共通点のない、見た目の野暮ったい平民風情のコサック将校が、到着したばかりの列車乗客でごった返すプラットホームで彼女を射殺した。そして、オーリャ・メシェールスカヤが校長を打ちのめすことになった信じられない告白が完全に裏付けられたのである。というのも、将校が法廷調査官に対して行った供述によれば、メシェールスカヤは将校をかどわかし、ねんごろの仲となった彼に妻になる誓いまで立てていたが、殺人のあった当日、ノヴォチェルカスクに向かう彼を見送りに来た彼女は駅で突然、自分は一度として彼のことなど愛したことなく、婚約話は全部彼へのからかいでしかないと告げると、マリューチンのことが書き綴られた日記のページを彼に読ませたというのだ。

「私はその文面にざっと目を通すと、おもむろに、私が読み終わるのをプラットホームでぷらぷら待っていた彼女に向けてぶっ放したんです。」将校はこう言った。「この日記、ほら、ここです。去年の七月十日のところを見て下さい。」

日記には次のように書かれていた。

《今、夜の一時。すっかり深い眠りについてたけど、ふと目が覚めてしまった…もう私は女になったのね! パパ、ママそれにトーリャたちはみんな街に戻って、ここに残ったのは私一人。一人になれて本当によかった! 朝は庭と原っぱを散歩、森に入ったとき、この世界には私一人っきりのように思えて、これまでの人生で最高だと思った。昼食も一人でとって、そのあとずっと一時間遊んだけど、音楽を聴いていたときの私、いつまでも終わりなく生きていくだろう、誰よりも幸せになるんじゃないかって気がした。そのあと、パパの書斎で眠り込んでから、四時にカーチャが私を起こしに来て、アレクセイ・ミハイロヴィッチが来たって教えてくれた。私は彼が来てくれて大喜び、彼を迎えて色々お世話できるなんてホントにご機嫌だった。彼が乗ってきた二頭立てのヴャートカ産の馬はとってもキレイで、玄関口に立ちんぼ、彼が家で休憩に立ち寄ったのは雨が降っていたからで、夕方までには体を乾かしたかったから。彼はパパがいなくてがっかりしてたけど、気を取り直して私のダンスのお相手をしてくれたし、私のことがずっと前から好きだったとか言って、さんざん冗談を飛ばしてた。お茶をする前に庭を散歩する頃には、また外も素晴らしい天気になって、すっかり寒くなったとはいっても太陽はすっぽり濡れそぼった庭のあいだをキラキラ輝いて、彼は私の腕を組み、自分はマルガリータを引き連れたファウストだとか言ってたわ。彼は五十六歳だけど、まだまだどうして素敵だし、いつも上品な身なり。ただ一つだけ身なりで気に入らないのは、家に来た時にトンビを羽織っていたことね、あれってイギリス製のオーデコロンの匂いがしてた。でも、眼はまだ若々しいし、黒々としてるし、髭は几帳面に長く二つに分けてあって、きれいな白金色をしてる。お茶を頂いたのはガラス張りのベランダ、なんだか気分が悪くなったので私は低い長いすに横になり、彼はと言うと、しばらくタバコを吹かしてから私の側に座り直すと、また色々と私のご機嫌をとる話を始めては、じろじろと私のことを見てから、手にキスをし始めた。絹の肩掛けで顔を覆うと、彼は肩掛け越しに何度か唇にキスをし…どうしてあんなことになってしまったのかしら、気が触れたんだわ、自分がこんな人間だなんて考えたこともなかったもの! こうなれば助かる方法は一つしかない…あの人に対する嫌悪感にはとても耐えられないわ!…》

この四月の日々が過ぎていくうちに、街はきれいになり、乾燥し、街角の石は白くなり、その上を歩くのも軽快である。毎週日曜日には礼拝後、街の出口に通じるソボール通り沿いに喪服と黒のライカ手袋に身を包み、黒檀製の傘をさした小さな女性が進んでいく。その女性が街道沿いに横断していく薄汚い広場には、煤を被った鍛冶場が数多くあり、そこを野原から爽快な空気が吹き込んでいる。その先をさらに行くと、男子修道院と城市のあいだに曇った天蓋は白み、春の野は灰色に色褪せて見えるも、修道院の外壁下にある水溜まりの隙間を突き抜けて左へ向きを変えると、そこで目にするのは白い菜園に囲まれた背の低い、広々とした庭のようなもので、その菜園の柵には聖母昇天と刻まれている。小さい女性は細かく十字を切り、慣れた足取りで小径を歩いていく。樫の十字架を前にしたベンチまで来ると、彼女は風吹きすさぶ春の寒さの中、薄手のブーツを履いた両足と窮屈なライカ手袋をはめた手がすっかり悴んでくるまで、一時間、二時間と座り込んでいる。春の鳥たちが寒さの中にあっても甘く歌うその声、陶製の花輪の中を唸り通る風の音を聞きながら彼女は時折、自分の命を半分呉れてやってもいい、せめて自分の目の前にはこの死者の花輪がなければと思う。この花輪、この墓丘、樫の十字架! まさか、十字架に嵌め込まれた、この隆起した陶製の肖像板から不死の光を眼光から輝かせているあの子がこの下にいるだなんて、それにこんなに純粋な眼差しを今やどうすれば一体、オーリャ・メシェールスカヤという名前と結びついたあの忌まわしきことと重ね合わせることが出来るのか? −しかし、心の底で小さい女性は、何かしら情熱的な夢想に身を捧げ尽くした人間たちと同様、幸福なのだ。

この女性はオーリャ・メシェールスカヤの担任教師で、若くはない未婚の女性、ずっと以前から現実生活をオーリャ・メシェールスカヤとすり替える妄想に生きている。この妄想の発端は、貧しくて、これといった取り柄もなかった准尉の弟で、彼女は自らの魂を丸ごと彼に、何故か彼女には輝かしきものに映じた彼の将来に、重ね合わせた。ムクデン郊外で彼が殺害された時、彼女は自らを理想的な働き者だと思いこんだ。オーリャ・メシェールスカヤの死は彼女を新たな夢想の虜にした。今や、オーリャ・メシェールスカヤは彼女を捕らえて放さぬ思考と感情の対象となった。彼女は休日ごとにメシェールスカヤの墓前に通い、何時間も樫の十字架から目を離さず、棺の中の花に埋もれたオーリャ・メシェールスカヤの顔色のない顔、それに、ある日立ち聞きしたことを思い出すのだった。それはこうだ。ある日の長い休憩時間のこと、女学校の中庭を歩いていたオーリャ・メシェールスカヤがお気に入りの友人で、体格がよくて背の高いスボーチナに早口でまくし立てるように喋っていたことだ。

「父さんのある本にね、父さんって古くて面白い本を沢山持ってるんだけど、女の美しさはどうあるべきかって書いてあるのを読んだの…そこにはね、ほんととても全部覚えきれないほど色々書いてあるのよ。まあ、もちろん黒々としてて、膠に煮えたぎる目ね、ほんとにそう書いてあったのよ。膠に煮えたぎる目よ! それに、夜の如く黒き睫毛、頬をたおやかに咲き戯れるもみじ、細やかなる体躯、人一倍スラリとした手、そうなの、人一倍ですって! それから、ちっさな足、そこそこ大きな胸、きれいな丸みを帯びたふくらはぎ、貝殻色の膝、撫で肩。私、沢山のことをほとんど暗記したほどよ。だって、書いてあることってみんな正しいんだもの! でもね、一番大切なことって何だか分かる? 軽い吐息よ! だって、私のってそうでしょ、ほら、聴いてみてよ私の吐息、ねぇ、言った通りでしょ?」

今やこの軽い吐息も再び世界に、この雲の広がる空に、このさめざめとした春の風の中に散ってしまったのである。

ヌカドコの永遠


生き物とは何か。
それは永遠を担保にして、束の間の命を手にした者たちのこと。
破産すれば、しかし、担保は取り上げられるのでもなければ、売却されるのでもない。
それはすんなり返還される。でも、どうやって?
すべての財産を失う代わりに、紙切れ一枚の人生を生と死のクリップで閉じれば、還ってくる担保。
永遠を分かち合うほど素直な遺産相続人などいやしない。
だから、自分でそれは片づける。
のし掛かる無担保の担保、命と決して釣り合わぬ、その辺に転がる漬け物石の墓碑。
だから墓地は、破産家族の憩う糠床。

2006/05/06

ヘドロ&カプリシャス



反吐が出そうになることがある。

海底深くにも浅くにもある、ヘド。人間世界の浅瀬にも深みにも、ヘドはある。

ロイターの今日の記事は、何とも言えぬ、その浅瀬のヘドの異臭を漂わせていた

「ハリウッド、保守派キリスト教徒を新たな市場に」

まあ、どうでもいい話だが、引用文にある句点の前半部分(「ハリウッド」)はその後半部分に続く「市場」という言葉といつも二人三脚なのだが、その二手に挟まれた「保守派キリスト教徒」というのはここでは何を語っているのか。

要は、ハリウッドはこれまで保守派をマーケティング上無視してきたということを言っているのだが、本当に無視しているのだろうか。「パッション」を例にとって、3億ドル以上の興行成績を挙げたその背景に、保守派の存在を無視できない事実があるというのだ。だが、アメリカがキリスト教国であることは事実上誰も否定していないし、ましてやハリウッドがそんな明らかなことを知らなかったわけがない。むしろ、これまでハリウッドがやってきたことは、ヨーロッパ近代国際法上「先占」(オキュペーション)と呼ばれ、華々しくも「西部開拓」という名で北米大陸の歴史を飾る植民運動が物理的な限界に達したあとの世界を光と陰によって閉じこめること、つまり、砂漠のような西部に自由市場を切り開くべく耐えず蠢き続けるピューリタン的野望を跡づける絶対主義の陰影を映像という陰に閉じこめたのだが、その陰は今度、映像そのものに憑依し、ハリウッドを動かし続けてきたのだ...芸術の名の下で、あるいはエンターテイメントという名目で、それはあたかも、自らが閉じこめた陰影を二度と外に漏らすことなどないと言わんばかりに。だから偶然ではない、ハリウッド俳優たちの示す一種の後ろめたさ、自らの陰をひた隠そうとする政治活動がもう一つの陰としてスクリーンの外に差し込むのをここに見るのは...

先占の後には「飼い慣らす」作業が続く。これぞコロニアルの発想だが、そこに以前から生きていた者たちに対して「生かさず殺さず」の精神がなければコロニアルは成立しない。また、入植者による独立への闘争ともなる。そして、アメリカ入植者たちはこの独立を勝ち取る。だが、ここには「先占」という前提が忘却されることは決してなく、もう一つ別の闘争もあり得る。つまり、「生かさず殺さず」の中で生き延びてきた者たちの闘争だ。今のハリウッドにとっての脅威は保守派ではなく、このもう一つの闘争を続ける者たちであるはずだ。だから、ハリウッドが無視したくても無視できないのは、むしろこちらの闘争の方であって、今や保守派となったブルジョアジーの闘争ではない。

紛れもなく、われわれが映画において見ているのは陰影であるが、ハリウッド映画となると、その陰・影は二重のカゲで出来ている。「先占」という「唾をつけた者勝ち」の論理、そして、ローマ教皇アンド国際法によるそれへの「お墨付き」という二つのカゲだ。

すべての映像がこうだというのではなく、他でもないアメリカ映画だからこそ、このカゲには意味があるし、アメリカ映画の意味もあると思う。東インド会社のように、歴史的役割を果たし終えたあと忽ち消え失せたように、恐らくハリウッドも消え失せるはずである。それは、ライセンス販売という手法を見ても分かるように、そのスタンスが200年以上前と何一つ基本的には変わっていないことから考えても予想がつく。だが、茶が未だに飲まれているのと同じく、それを望む者がいる限り、映画はなくならないだろうし、たとえDVDがデフレの谷底に投げ込まれても、そうだ。大陸会議ならぬ、海洋会議でも開いて、アメリカのカゲと闘う者たちは独立を果たさなければならないのだろう。

アカデミー賞というお茶の品評会も、いずれは数奇者の懇親会になろうが、それはあくまで、この世のカゲに包まれながら...だから、というわけでもないが、ロイター電には、ヘドが出る。

2006/05/01

アンチ・カルヴァン

「不快とは何か」などと書くと、つい快楽原則とかを逆に想像してしまうが、不快とは快を誘引するものであることは間違いない。例えば、神戸市職員の「不快手当」。聞いて驚くなかれ、と言いたいところの響きを持つこの「手当」には勤労を不快とするアンチ・カルヴァン派的なニュアンスが伴う。勤労はエネルギーを消費する、しかもその消費が徒らなものとすれば、むしろ浪費と呼ばれるべきであり、したがってその浪費は勤労者にとっては不快、よって手当の対象となる。

これをアンチ・カルヴァン的と呼びたいのは、つまり、仕事を予定調和的ではない非ー天職としての仕事として位置づけているからで、これは言い換えれば、偶さかに選び取った仕事であり、誰にでも出来る仕事であり、卑しい仕事であり、蔑まれる仕事だということをこの不快手当に相当する勤労概念が自ずと吐露しているからである。

公僕という言葉は使われなくなっているそうだが、だとすれば、宗教改革以前の農奴と同じく、救われない職であると言うことだ。そこには何らプランもなければ喜びもない身を引きずり、苦悶に歪んだ面をただ地面にねじ込まれているばかりの下僕の末路しか残されていないということだろう。だから、なにがなんでも、不快手当は必要なのである。

そして最後に。
通常の勤労への上載せで、「勤労手当」というものもある。よく頑張ったね、という手当だ。
現代版アンチ・カルヴァン主義者よ、恥を知れ。

2006/04/30

「われ一握りの脳のなかに生き...」


ふと、くだらんダジャレを思いついてしまった。
「ノウハウ」っつー言葉。

1.「脳、匍う」:これは良い考えが浮かんだので脳が身体の穴という穴から這い出そうとする様子。
たぶん、食事中だとずいぶん煩わしいに違いない。

2.「膿、這う」:これは皮下に蓄積した大量の膿(ウミ)が癒されぬゆえに出口を求めてさまよう様子。
針で一突きが救いの神となる。南無〜。

サド、またの名を「モグラ」

最近筆が進まないのは何故か、と考えていたらいろんな邪魔者を発見。
先ずは思考の浅さだ。一度深く潜ってしまうと、しばらくしたら酸素不足になる。
だから、いつも時間が経てば深いところの記憶など忘れてしまう。これは生理的なレベルで起こるのだろう。
性欲もこの手の周期を持っているらしく、ふしだらさはそう長くは続かない。サドほどに純粋さを求めようと、やはり必ず食欲が邪魔をするのだ。だから、どちらが序での欲なのかわからなくなり、結局純粋さを求めるのは片手間になりがちだ。
そう考えてみると、ブログというのも序でなのである。したり顔の純粋さも、結局は片手間で、思考も片手間。
深みに嵌るも、浅瀬で戯れるも、要は生理レベルで決定されてしまうのか。どうもこの粘りのない思考すらも怪しげだ。
深く考えるということが、しかし、自分との距離を極限にまで切り詰めることだとすれば、それは沈黙なのかも知れない。
もしそうならば、考えていないように見える自分はその実、考えるということ自体に呑み込まれていて、考えるそのものになっているのか?否、それも怪しい。証拠がない。対自距離ゼロというのは証明できないし、そもそも誰にも分からない。だから、それを証明すること自体嘘っぽいし、それは魔が差した時にしか言葉にならない何かなのだろうか。
しかし、である。逆に、距離ゼロの世界からすれば、客観的な物言いの方が嘘っぽく見える。それは浅くなればなるほど客観的なわけで、浅い考えほど自分から懸け離れていくからだ。そして、距離が生まれていけばいくほど、証明可能になっていく。誰の手にも載せられる実体をもった事実に見えてくる。でも、それは沈黙のゼロ距離世界からすると幻想にすぎない...

人間の前に空間が開く時、それはいつも怪しいものの出現を予兆しているのだろうか。それとも、自らの怪しさをさらけ出しているのだろうか。まあ、どちらでも同じことだろうが...

写真:サドモグラの坑道

2006/04/21

「社会主義のもとでの民主化」あるいは「V、その名もヴェンデッタ」

私は基本的にはアナルキストなので、こんなことをぶちまけたところで何の得あるいは徳にもならないが、この世界は出鱈目である。
というか、出鱈目こそが世界なのだと言いたくもなる。

例えば、昨日の「社会主義のもとでの民主化」という胡錦涛の言葉を聞いて、ほくそ笑む連中はこの世に五万といるはずだ。
歴史の授業でイデオロギー闘争の終焉とかいってノートをとることほど馬鹿げたことはないのだ、と今更ながら思う。
15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ史を見ると、国家は国家ではない。というか、このような国家の歴史が今もなお確実に延命し、継続しているのだとすれば、国家など最初から特権商人の懐と刃零れした貴族の剣を隠れ蓑にした群盗の雑居楼に過ぎない。つまり、虹色で彩色艶やかなガウディ的構造物の内壁は未だに血まみれで、その外へ出ようとするものは商人でなければ皆犯罪者扱いされても仕方がないのである。時代を超えて存在するのは「エコノミック・アニマル」ならぬ「アニマル・エコノミクス」なのだ。

「社会主義」の蓑笠が未だに「民主化」という屈折した理念なのだとすれば、これを本気に信じ切れる者は永遠に幸福であれ。スターバックを褒めちぎるその前代未聞のチープさを演出しているのは社会主義の方ではなくて、他でもない資本主義である。資本主義はこれまで社会主義世界という舞台を総合演出してきた舞台監督なのだから、今更これを押しつぶすようなことはしない。それほど、商人は馬鹿ではない。植民地思想というものは生かさず殺さずの思想であって、敵を生かしておくことこそが時間節約のための成功哲学である。

「ヴェンデッタのV」は未見だが、イギリスが独裁国家になるというのはそもそも荒唐無稽である。上に見た理屈からして、あり得ない。そもそも、イギリス流経営からしてこれはむしろSFにすらならない。無論、だからSFなのではあるが...まあ、オーウェルのような作家はいるにせよ、彼などインド生まれのイギリス人であるから、そこにあるのはせいぜい屈折したブリティッシュ・アイロニーの一部に過ぎない。いずれにせよ、イギリスが舞台になった時点で、それはイギリスのことではないということだけははっきり言えるだろう。

2006/03/31

ウグイスボーロボロ

今日、私は朝から笑っている。何か良いことがあったから笑っているのではない。ただ、自分がいかに欺かれていたというか、いかに自分で自分を欺いていたか、ということに笑ってしまったのだ。
春先のこの季節、昔からトイレに入るとウグイスが鳴いているのに耳を澄ましては何ともない感じを抱いてきた。だから、大して啼き声になど興味はなかったものの、その啼きのパターンは一つだと勝手に思いこんでいたのである。つまり、「ホーホケキョ」だ。
しかし、さにあらず。今朝、徹夜の頭でコンピュータの前で座っていると、耳慣れた声が聞こえる。ウグイスだ。だから、反射的にトイレで座っている気分になっていた。ズボンはそのまま履いていたから括約筋は反応しなかったが、外をよく聴くと変なのだ。パターンが違う。神戸に移ってすでに十年以上になるから、今年からリニューアルなんてこともないだろうし、自然界がそんな気の利いたことはしない。無論、気前だけは良いのだが、今日はその気前の良さが違った。
「ホーホキョケ」・・・ん?
「ホーキョケ」・・・はぁ?
「ホキョ」・・・...?
仕舞いには
「キョ」である。
これはきっと誰かが真似をしている、声帯模写の方が近くに住んでいるに違いないんだぁ、とここでも思いこんで外を窺ってみるも、人影はない。よっぽど耳が悪くなったのか?そしてまた、
「ホーホキョケ?」
おちょくっとる。
この啼きは、メスに笑いをとっているのか?
「でも、人間の笑いをとってどうする、なあお前さん」と笑いながら、その後も外を眺めていた。

2006/03/23

単為生殖と女の平和

生活環境によって生殖方法を適宜変える生物がいる。好適条件を利用して大量繁殖するために用いるのが単為生殖で、いわゆる自分でじゃんじゃん「産めよ殖やせよ」をメスから実行する。これぞ「男のいない平和」である。こうして個体群の密度が上昇し、数が増えてくると、やっときちんとした卵を作るのに必要な相棒、オスが現れる。こんどオスとのあいだに出来る卵はすっかり硬い殻でコーティングされているので、環境がどれだけ悪化しても休眠状態に入ってしまえばいい。嵐が過ぎ去るのを待つのである。オスはこの時やっと、メスの卵の「殻」を強くする、いわば皺隠しに塗りたくる白粉ほどの価値はなんとか獲得する。人間界をミジンコ界と比較すると何とこの世は価値に満ちあふれていることか。

2006/03/22

理の性

「ETA」が弱小言語であるバスク語の研究集団から武装集団に変貌していったが非合法組織というのは知られている。

不謹慎ながらも、私はいつもこの「豹変」としか言いようのない人間行動が不思議でならないのと同時に、非常な興味をそそられるのである。かつては西ドイツなどを中心にしてヨーロッパにはゲリラ組織がうじゃうじゃ散在していた時期があるが、そのなかに、科学的な方法でテロリストに仕立て上げられた連中がいる。今で言えば「洗脳」ということになるが、要するにそれは複数名の被験者を「急進的社会主義者」に「改造」するのだ。理念的に言えば、彼らの頭の中は正しい思想が沢山詰まっていて、それを実現するためには自分たち以外の人間も自分たち同様に改造しなくてはいけない。だから、論理は「世界=瑕疵」であり、善くないのである。この改造行為を外化による理念の実現と呼んでもよいが、結局彼らは本当にテロリストになって、ストックホルムのある大使館で殺害事件を引き起こしてしまう。

理性は息苦しいものであり、その苦痛は人間を発狂寸前にまで追い込むことがある。たしか、「ハムレット」にも、狂気にはそれなりの理屈があると、という一節があったと思う。俗に「もっと理性的にならなきゃ」と言うが、何のことはない、それは「話半分くらいで理性に従う」くらいのものであって、理性的人間を極限まで追い込むとどうなるかは、上にもあげた事例が示してくれる、つまり、理性はその究極形態において常に破滅的であるということを。

2006/03/20

バトラー養成プログラム

ーバトラー君、お入り
ー何でございましょうか
ー君にはこれまでずいぶん世話になってきたよな
ーええ、お世話させて頂きましたが...
ーそこで一つ最後にお願いがあるんだ
ーと申しますと...
ー今日は主人になってくれないかね
ーご主人の「主人」ということでしょうか...
ーそう
ーいかがいたしました?
ーいや、大したことないんだが、たまにはと思ったんでね
ー結構でございますが、何から初めていいものやら...
ー靴磨きとかでもいいぞ、何でも命令してくれ
ーはぁ、では私の奴隷になってください
ーああ、それなら簡単じゃないか、今までと同じだ

2006/03/18

蘇るバルトロマイ(東暦666年)



「剥がれても私は立ち尽くす」の図(ミシェル・アンジェリカ作、東暦666年頃)

2006/03/17

ホムンクルス・キベルネティクス卿回答書

信愛すべきサァ・スチュワート・カンタベリー殿!

報告司祭の書面、本日夕刻に拝受致しました。
貴殿の苦しみ、これは私どもの痛みでもあり、同じ天蓋に住まうものであればこそ、血と肉をともに分かち合うがごとく、その苦悶すら常に分かち合おうというもの。大鉈を振るった者にしか分からぬあの罪深き快楽、かっ裂いた贄牛の腹から一本そしてまた一本と引っこ抜かれる血の滴る肉、それは貴殿の苦しみの元となるスペアリブであります。喩えとしてはやはり皮肉なものでございますが、私の頭蓋の毛根もこのスペアリブの如き運命。その苦しみは比べるまでもございませんが、しかし貴殿の苦痛は快楽が一つ一つ抜き取られ、浄化されていることを暗示してはおりませぬか。風化していく私の頭皮はもはや誘惑に堪え忍ぶべき試練として与えられた砂漠、この荒れ果てた地には悪魔が仕掛けた罠で足の踏み場もございません。されど、これは神の試練、この悔い改めをもって至福を願われておられるのではありますまいか。

最後に。
不躾な文面、何卒御寛恕頂きたく存じます。荒地にある貴殿の苦悶が一刻も早く癒されんことを切に祈りつつ。ドミヌス・テークム!

あなたのホモンクルス・キベルネティクスより

写真協力:スー・フランソワ・バトラー宣材写真本舗

「ある教管区でのこと」司祭報告:サー・スチュワート・カンタベリー特派員

2612年109月2.26日(パカパカ)

私の管区では最近、色々と物騒なことが起こっております。先日も、犬に噛みついた男がおりました。そこで、

「一体どうしたのだ、下僕よ」と聞いてみますと、
「犬が悪口を言ってくる」というのです。

医者に診せてみますと、その医者も同じような苦情を私に投げかけてくるのです。”困ったものだ、医者がこれでは困る。どうすればいいのやら...”と思いあぐねておりましたら、耳の奥で声が聞こえてきたのです。

「あいつは犬じゃない、悪魔の手先だ、やってしまえ、やってしまえ...」

私は怖ろしくなりました。身近な者が狂気にある時、周囲の者も感染することがあると聞きます。私も同じように気が触れてしまったのかと思い、救われたい一心で祈りを捧げました。すると、今度はこれまでとは違う声が聞こえてきたのです。

「...ふむ、このスペアリブ、どこで買ったの?うまいや... モグモグ」

これがもう一ヶ月も続いています。未だに、神の声は聞こえません。

どうすればいいのでしょうか、誰か教えて下さい。

ノウの発達と野蛮の尺度

宇宙、少なくともこの地球上では神の思考実験、つまりそれはすでにホンチャンの実験として、脳細胞増殖計画が進行中である。

脳は進化しているのか、という問いは愚問で、すでにその進化速度も限界域に達し、もはや下降線を辿って久しい。その代表格がホモ・サピエンスである。何も道具を持ち、言葉を話すからといって、偉そうにふんぞり返ることの出来る時代はとうの昔に過ぎ去り、いまやこの忌まわしき聖なる実験をうっちゃって、自分たちのプログラム(遺伝子)を改竄して、この肥大しきってだらしなく腹の出た脳味噌は丁度お手頃サイズのコンパクト・ブレインに変えられようとしている。どんな野蛮なことをしても、「脳が小さいからしかたないじゃん」という言い訳をするためだ。脳はもはや盤石ならぬ、蛮尺となって、この世を憎悪する。これが神の宇宙開発である。ウキッ。

2006/03/16

人類は何をもって生きながらえるのか


ブレヒト『人類は何をもって生きながらえるか』

紳士諸君に告ぐ、汝の使命を
死に値すべき七つの大罪より我らを清めんことと思いなす者よ
先ずは基本的な食のあり方というものを見直さねばならん
そうして初めてご託を並べるがよい、すべてはここから始まるのだ

節度を説き、腰のくびれに気を回す輩どもよ
一度でいいから学ぶがよい、世界のあり方を
いかに体を捻ろうと、いかなる出鱈目を言おうとも
食が第一、モラルなど後からついてくるのだ

しかして、念を押そう、この今という時に餓え苦しむ者たちが
しかるべき助けを得るのは、初めて肉が諸人に切り分けられたときなのだ
人類は何をもって生きながらえるのか?

人類は何をもって生きながらえるか?
この事実、何百万の民が日々拷問、
燻殺、刑罰、緘黙、抑圧のもとにおかれている事実だ
人類が生きながらえているのは、同族種を押さえ込む
その手練手管のお陰なのだ
よって、一度でいい、この事実を金切り声で叫ばないでみよ
人類は獣の業によって生かされている

1928

2006/03/14

たそがれて


こうやって、悪魔君でもたそがれる...

主人と賓客

エコロジカルなマインドとは何か、と少し考えてみる。変な言葉だが、今やこれを聞けば何となく連想するものは誰にでもいくつかはあるだろう。まあ、別段、かく言う自分は誰に強制されたわけでもないのだけど、「地球にやさしく」という言葉が昔から気になっているので、今日はこの種の「やさしさ」を取り上げる。

この「マインド」は、端的に言えば、「世界の手段化」への抵抗なのだろう。ここでいう手段化とは、つまり、地球の主としての搾取をいう。まあ、捕鯨を止めたところで、何かを食するのがわれわれの定めであるから無駄な抵抗といえばそれまでだが、この抵抗の意味は一体何かを考えてみないといけない。

主人は始めから主人であるわけではない。彼は自分が主人であることを認めてくれる者を常に必要としているし、その必要性を必然性に変えてくれる者に依存している。主人の真理条件はこの依存者である、とすら言える。例えば、イギリスの「バトラー」は単なる召使いではなく、主人を取り巻く環境を整えて管理する存在者である。それを主人がやってしまう(つまり、主人たる条件を無視する)と彼(バトラー)の存在意義は無くなるので、それには主人も絶対手出ししてはならない。主人の主人たる条件としての依存はこの「手を触れない」という命令によって初めて成立する。だから、主人というのはこの自らへの命令がなければ主人でもないし、何ものでもない。単なる人である。

民主主義はこの「単なる人」であり続けることを考えようとする。選挙権といったことはすべて制度上の問題なので、これをこの主義の根幹というのは単純に可笑しい。むしろ、主人を誰にするかを決めるに当たって、「単なる人」が自分に対して向けた命令を貫徹する可能性を問うことにある。「主人を決める」といったが、これは自分に依存してくる人間を決めることだから、「みんなのため」とか「国のため」云々は全部後づけのデマゴギーに過ぎない。

大臣という言葉があるが、たとえ偉そうに聞こえても、この漢字にはそんな意味は含まれていない。むしろ、仕える者の親玉くらいの意味であって、やはりこれも主人に仕える「バトラー」なのである。本来は「単なる人」だった連中が主人を決めた上で、その長になるものを決める過程で生じてくるのが大臣であって、その人物に一目置くというのは、精々、喧嘩が強いとか口が誰よりも達者という程度のことに過ぎない。

さて、手段の話に戻る。
世界の目的が一体何なのかは最初から明らかではない。だから、手段も同様に、最初から明白ではない。どこに的を定めるかは、上に言った「主人」を誰にするかによってあらかた決定される。そして、その手段は一様である。なぜなら、「的を射る」ことだけだからだ。エコ・マインドの的は「地球」である。その外へ出る必要は今のところない。地球が「主人」だからだ。客人たる生命体あるいは生態系の「もてなし」で頭が一杯なのである。だが、奇妙なことに、このもてなしに頭を悩ませている者自身が「客人」なのである。これは本来、主人が考えるべきことで、客は任せておけばよいのだ。だが、そうはいかない、とこの客たちは言う。だから奇妙なのだ。人の家に上がって、勝手に冷蔵庫を開けるようなものである。これは奇妙どころか、不躾ですらある。でも、それでいいのだ、と客は言う。客はさらに、主人にはもっとやさしく接しないとダメだと言う。なぜなら、主人の頭皮は老化し、毛は無様にも抜け始め、ヤニだらけの歯は零れ落ち、脳味噌は血腫だらけで今にも炸裂しそうだからだ。要は、死にかけているので、蘇生術を施そうというわけである。世界はもはや客人が憩う迎賓の間ではなく、緊急病棟なのだ。だから、客人の中にいた医者が手を上げて立ち上がり、屋敷の至るところにカテーテルを挿入するのである...まあ、こういう喩えは際限なく続けられるが、このくらいで止めておこう。

しかし、主人が瀕死なのか、それとも血相を変えて立ち働く客人が酸素不足で錯乱状態なのか、果たしてどちらなのかを考えないといけない。むしろ、地球=主人を手玉にとって搾取するというのは言い得て妙だが、的はずれではない。地球=世界を手段にして目的としないのはけしからん、というのは汎神論的には正しい。だが、どんな「単なる人」も、自分が手段になることは望まないのだとすれば、これまた都合の良い話である。つまり、この客人たちには目的はあっても手段がないのである。だから、それは蘇生術に見えて、ただのお掃除にしかならない。政治用語で言えば「パージ」だ。

...病室には何本もの管につながれた「地球号」が横たわり、その周りには清掃服を着た医者が取り囲んでいる。今、われわれが住むのはそんな室である。

2006/03/06

Dominus mecum...

【8日】「“ネオ・ヤポニカ種”が絶滅の危機」

絶滅危機種に指定されているネオ・ヤポニカ種の交配に失敗し続けている泥国アカデミー(Academica Dei Cosmopolitanicae)のクシェストフ・バープキン博士研究チームは7日、今後の対応策を協議した結果、2512年以来100年近く継続してきた「ネオヤポニカ・サルヴェーション計画」(通称ヤポサル)を来期でもって放棄する発表を行った。



バープキン博士の談話
ー現時点において自然状態での同定が可能な「ネオヤポニカ」種の半分以上は、2403年以降の急激な寒冷化に伴ってその定住圏を東シベリアへ移動させています(咳)。しかも、その多くがすでにオス化してしまったたメスという有り様です(笑)。これまでに観察されているデータから推定しますと、すでに性変異段階に入った群種が再オス化する可能性は0.000000000000001%の確率ということが言えるでしょう(冷笑)。この話と直接の関連性はまだ確認されていませんが、去年末にはこれまで学会で否定されて続けてきた「レミング」型集団自殺を証明する実例がチャイニーズ=チベタン科学アカデミー(通称チチアカ)によって公式に発表されました。レミングとは、いわゆるタビネズミのことですが、この生態現象は個体数調整を行うために個体群が集団自殺するというもので、進化生物学史上の神話的仮説として登場して以降、まだ19世紀的呪縛から逃れていなかった生物学者を捉えた時期がかつてありました。その後、遺伝子中心主義の時代になり、完全に無視されることになりますが、ここ数年、ネパール帝国アカデミー(略称ネアカ)からの新たなデータが収集されたことで、にわかにまた脚光を浴び始めていました。この集団自殺によって完全自滅してしまったのはネオヤポニカ亜種の「ネオオサカーンス」です。この亜種はもともと「笑動物」という異名をもち、北半球コロニーの生物学教科書では必ず「お笑いコラム」に紹介することが各国アカデミーでは義務づけられています。ですから、言葉遊びになって恐縮ですが、この亜種が絶滅してしまったことでわれわれの「笑いの種」がなくなったことは大変悲しいことです。(博士はここで喉を潤そうとしたが、笑いがこみ上げてきたためにインタビュアーの顔へ放水)...とにかく、亜種のネオオサカーンスによる自滅行動とネオヤポニカのメス化とのあいだに遺伝子レベルでの関係がないかどうかを今後も静観していく必要はあるでしょうが、「ヤポサル」を継続する気はもう全然ありません。年間5億ドルの大枚を叩いてエコ・コイトゥス(第5世代人工発情装置)を再三購入してまで、漸次野生化するサピエンスを救済する計画には泥国国内からも非難の声がそろそろ絶えなくなってきていますから。



サイエンスライターのマジック・ベンジャメン・ロヨラ・サールズベリー牧師のコメント
ーまあ、人類にとって「笑いの種」がなくなるというのは、「失笑」ものかな?
Dominus mecum!


インタビュアー:サー・スチュワート・カンタベリー特派員(2612年タンゴの節句に「イヒヒ」と笑うところを記念撮影、写真右)
写真協力:スー・フランソワ・バトラー宣材写真本舗

2006/03/01

忘れられない守護聖人


「守護聖人」と題したが、私はカトリックとは何の所縁もない者だから、これから書くことは単なる数珠つなぎ的な雑記である。


だから話は全く関係ないところから始まる。


コードネームは「スカーレット」

ここ最近というもの、日本には「インテリジェンスが必要だ、全くその意識が欠けている...云々」と、さも何かの秘密を握っているような物言いの似非賢者たちがテレビを賑わしている。特に国家戦略がらみの言説では「○×研究所所長」とかいうダブルに太っといネクタイ(大抵赤色だが、緋色がお似合いなのに)のオッサンがニュースキャスターの横にちょこりんと座っていて、まだこれから五時間くらい喋っても足りないってな感じで帰って行ったあとのコマーシャル明けに、目がチカチカするネクタイを見なくてすむのは何と清々しいことか。

「インテリジェンス」という言葉が今の意味で使われるようになるのは丁度16世紀の半ば以降のことで、それまではいわば、広く一般に耳よりの情報や告知・警告を届けるといった「広告」の意味合いで使われるのが普通だった。これを日本に持ち帰ったのが明治以降のことだから、意識が欠けているのはある意味当たり前のことなのだけど、こうやって、この16世紀が今回のネタの発端となったのである。

気になりだした本家本元の情報収集活動=諜報を色々と調べていくと、王家の周辺に諜報活動の専門集団が形成され始めるのがやはり同じく、この16世紀で、より正確には、新旧教徒の覇権争いが激化した聖バルトロメの虐殺前後の時代に遡る。

と、ここまでは単なる枕でしかない。
聖バルトロメ、これは十二使徒の一人。そして、ここでやっと先に触れておいたカトリックのお話である。

この聖人はカトリックではパトロン聖人(などと書くと、どこか遠いところからやって来た人みたいだけど)、いわゆる守護聖人。でも、聖書を見てもこの人の名前はほとんど出てこない。ヨハネ福音書になると、名前すらない。どうしてなのか、という理由はここでのテーマじゃないから深くは掘り下げないけど、彼の本名が実は「イエス」だったことから、混同を避けるために変えたという話がある。これはシリア系の伝承らしいが、しかし、これもどうでもよい。

ただ、少し話を保たせるのなら、こうだ。
ミケランジェロの「最後の審判」に皮だけになってぶら下がっている人が一人いる。これは後に出来たバルトロマイを描く際の伝統で、生きたまま皮を剥がれて殉教したことから、彼は革職人のパトロン聖人ということらしい。何とも日陰である。ダラリと垂れたダリの時計って感じ。

問題はここから。

イエスの死後そして復活後、使徒たちは宣教の旅に出る。パウロによる異教徒ストア派の前での演説があまりにドラマチックな舞台装置には少々驚きだが、せっかくの晴れ舞台なのに肝心なオチがないので失笑を買ってしまう。一方、バルトロマイはインド、そしてさらには、自殺したイスカリオテのユダではなく使徒であるタダイのユダとともにアルメニアへ向かったという(ここにアルメニアが世界最古の使徒教会と称する所以がある)のだけど、これもあまり関係ない。ここでは、日陰にいたバルトロマイからさらに日陰のユダにバトンタッチをしてもらう。

昔から深夜はハリウッド系ドラマというのが定番だが、僕が好んで流し見していたのが「ヒル・ストリート・ブルース」だ。アメリカにとってシカゴという町が特別な場所(アメリカ第二の都市、人口密度では第三の都市)なのは分かるけど、日本風の「部長刑事」とか「はぐれ刑事」みたいな泥臭い刑事物は先ずない。アメリカの刑事物は大概、悪人と善人の区別がつかず、だから、警察署内での横領とかがテーマになりやすい。勧善懲悪とかにしようとすれば、どうしても「ナイトライダー」みたいなフリーメーソン風の超然とした秘密組織が必要になってくる。日本でそういう物を見るのなら、刑事物はお薦めできない。それこそ「仮面ライダー」が一番。

話がそれたが、やっと本題。
シカゴは1770年代にハイチ人(非白系)のジャンーバティスト・ポワント・ドゥ・サーブルが最初に根城を構えた場所で、実はアメリカ史においての彼の位置は、白人でないことから良い扱いを受けてはいない。町の長にもなれなかった彼は自宅を売り渡して西部へ旅立つわけだが、その理由も未だにはっきりしていない。アメリカの歴史においては、いわば「敗残者」に仕立て上げられてしまったままだ。

上段で、すでにバトンタッチしてもらっているユダにここでやっと登場してもらうが、彼は名前が同じ「ユダ」ということもあって、祈りの際の混同を避けるために、祈りの対象にはあまりならず、ある時期まで高い人気がある聖人とは言えなかった。ところが、ヨーロッパではスペイン・イタリアというカトリック教国で日陰にあった彼はいわば「リバイバル」を果たす。これが1800年代初頭という。はっきりとした因果関係はここには見いだせないが、南アメリカ経由でこの聖人崇拝は合衆国アメリカに辿り着く。その発火点となったのが他でもないわれらがシカゴである。

ユダは敗残の守護聖人。

「ヒル・ストリート・ブルース」の舞台はシカゴ。だから、シカゴ市警察の守護聖人はもちろん「聖ユダ」。

敗残の苦悩に耐える場所、そこにはいつもユダがいる。

2006/02/28

時計を全部止めてくれ、電話の線も切ってくれ


W.H.オーデン

時計を全部止めてくれ、電話の線も切ってくれ
うるさい犬は美味しい骨で黙らせて
ピアノの音を消し、太鼓は布で覆い
棺を外へ出してくれ、葬い客を通しておくれ

飛行機に頭上で嘆きの円を描かせて
空に書き殴るメッセージは、カレ ナクナル
喪章を伝書鳩の白い首に巻き付け
交通整理の警官には綿の黒手袋を着けてもらおう

彼は私の北、私の南、私の東そして西
私の平日、私の日曜の憩い
私の真昼、私の真夜中、私のおしゃべり、私の歌。
愛はいつまでも続くと思っていた私だが、間違いだったのさ。

星なんていらない夜だから、一つ残らずつまみ出せ
月もさっさと片づけて、太陽も解体撤去だ
海は遠くへ押し流し、森は吹き飛ばすのさ。
こうなった今ではもう何の足しにもならないのだから。

2006/02/16

空母「いしわた」

【おパリ15日時事】
西域での改名を目指していたおフランスの退役空母「おクレマンソー」(現役時最大排泄量3万2780豚)について、オシラク大統領は15日、仏本土(=冥土)に帰還させるよう命じた。昨年12月末に西域へ出発した同空母は、結局全く改名作業を行うことなく「黄泉がえり」を余儀なくされることになった。
予定されていた改名後の名称は「空母いしわた」。
戒名は「仏呉万僧石腸即是空母」。

2006/02/11

アリスとテレーズ、あるいはチャーリー・アンド・エンゲルス

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

AFP通信2006年2月14日送信予定の原稿から:

「欲望果てる国のアリスとテレーズ」

今春、ブリティッシュ・レズビアン・ムーブメントにおいて一つの大輪の花が開いた。その衝撃的な内容と芸術的な手法によって演劇界の話題をさらったデュオ劇作家、アリス・ドノヴァンとテレーズ・オッカムだ。

ポスト・フェミニズム運動の衰退していく中、彼女たちが今度持ち替えた武器はシニカルな「ダガー」とも呼べそうだが、その内容の赤裸々さを存分に理解するには、とにかく一度味わうしかない。誰もが読んだことのあるような話を彼女たちは求めちゃいない。その小気味の良さはエイジアンな辛みとジャーマンな苦みのブレンディングが生み出しているものかも知れないが、それは勿論、読者が判断してくれればいいことだ。

かく言う筆者も、実は、今から紹介する彼女たちの小品で出会った言葉のいくつかには今も首をかしげている。知人の言語学者に聞いても、「さっぱり分からない」の一点張り。これには正直、参っているのだ。だが、分からないなりにも、ほかの分かったことだけで充分満足しているのだから、なお一層彼女たちには惹かれてしまうのだ。

とにかく、この彼女たちが今冬世に問うた『D級数』からの抜粋を少し読んでみて欲しい。

『D級数のチャーリーとエンゲルス』by Alice Donovan and Terrese Occum(自動翻訳)

「Dedhalavoch級数」とは、No.1(俗にOssicusと呼ばれる。複数形はOssicua)の洪水に押し流される黄金人間の数が、二回目になるとその倍になると言う、とても信じられない嘘のような数学的秘術であることはカバラ系数秘学者の皆知るところである。これについては、どうしても話の続きをせぬわけにはいかない。

「二回目」というのは、実はOssicusとはずいぶん様子が異なる。Dedhalavochの繰り出すNo.2(俗にUntiumと呼ばれる。複数形はUntia)の雪崩に幸運にも呑み込まれた者たちは、その夜ミダス王の夢を見るというのである。だがその夜見ることになる夢というのは、手にするもの全てを黄金にしてくれるという魔法が切れてしまった後のミダス王の哀れ末路、後日談なのである。

今度の彼が手にするものは全て、価値形態論を論じた『資本論』第一巻に変わってしまうというのだ。絶望に取り憑かれた王は、逃げまどう侍従たちを片っ端から捕まえようとするが、その彼らはというと、阿鼻叫喚であるー

「お許し下さいませ、どうか、チャーリーになることだけはご勘弁を」

「私もでございます、陛下! どうか、エンゲルスにだけは魂を売りたくはございませぬ、お許しを!」

「何を言うか! 貴様どもは黄金になりたいと思わぬのか!」

ーと、見るも無惨なただの価値形態へと変られてしまうのだった。

そして不幸の舞台はこれで幕を引くわけではなかった。そこに、自分の周りを黄金の柱で飾り立てられていく王に哀れみを垂れんとして口づけようとした王妃があった。そう、その王妃すらも裏表紙に往年の髭面デュオ、チャーリー・アンド・エンゲルスの宣材写真を配したあの黴臭い『資本論』へと魅惑の変身を遂げてしまうとは!

嗚呼、この運命の女神たちの謀りごとによって変えられてしまった黄金人間たち!そしてこの夢が、実は黄金人間となった自分たちの夢であったことを知る、吉夢ならぬ既知夢だということも彼らには想像すら出来ぬことだったのだ。

その後、幸運にも、価値形態になることをただ一人免れたDedhalavoch Scatologiqueは、国外追放の憂き目にあった王を断首すべく、断頭台の階段に夜半すぎから降り積もった雪をせっせと掃き清めてしまうと、宮殿を岸壁近くに仰ぎ見ながら、価値形態の並び立つ渚でさざめくOssicuaとUntiaの波頭に身を預けて現れる一つ目巨人フィボナッチの姿を、見晴るかす水平線の向こうにいつまでも待ち続けていた。

ましおい。

2006/02/04

僕の旅したことのない場所

E.E. カミングス
あるどこかで、僕の旅したことのない場所で、嬉しいことに
いかなる経験も及ばぬところに、君の瞳がじっと黙ったままでいる:
そこはかとない君のか弱き素振りの中に、僕を閉じこめてしまうものがあるのか、
それとも僕にはそれが近すぎるがために触れることが出来ないのか。

君のちょっとした眼差しに僕はいつも容易く剥き出しにされてしまう
自分を拳のように堅く握りしめているのに、
君は決まって僕なんか花びらみたいに開いてしまう、まるで春が開く
(その巧妙で、神秘的な指使いで)その先駆けるバラのように

あるいは、君が僕など閉じてしまいたいと思えば、僕と
僕の命など、いとも可憐に、瞬く間に、閉じ込んでしまう、
まるでそれは、この花が心の中で
至るところで気遣いながら降り行く雪の姿を思い描く時のように

何ものも、僕らがこの世で感じるものに,
君の激しい脆さほど力強いものなんてない。だって、その織物は
それを織り上げた土地の彩りで僕を跪かせ、
死と永遠を互いに息づいたままにして返そうとするのだから

(僕には分からないままだ、君の一体何が僕を閉じさせたり
開かせたりしているのか。僕のなかの、あることだけは理解している、
君の瞳の声がどんなバラよりも深いところにあるのを)
誰一人、雨でさえ、そんな小さな手はしていない

2006/01/29

孤独(1956)


孤独 

ヨシフ・ブロツキー

ときに、疲れ切った意識が
釣り合いを失い、
ときに、この階段が
甲板のごとく
足下を払い、
ときに、夜の孤独が
人間たることに唾吐くことあればー

君には可能なのだ
永遠について思いをめぐらし
そして、芸術作品の
理念、仮説、受容、
そして、ちなみに言えば、かの
イエスを孕んだマドンナの純潔にも
疑念を投げつけることも。

だが、与えられているものに頭を垂れる方がましだ、
それには深々と掘られる墓があり、
年月を経た末に
愛しきものと映ろうもの。

そうなのだ。与えられたものに頭を垂れる方がいい、
それには短い路程があり、
後になれば
不思議なまでに
広々としたものに、
大きく、砂塵を被る、
妥協で敷き詰められた道に、
巨大な翼に、
巨大な鳥に見えようもの。

そうだ。与えられたものに頭を垂れる方がましだ、
その貧しい物差しは
その後、極限にまで辿り着くと、
欄干となってくれようし
(さほど綺麗とまでは言わない)、
刃のこぼれ落ちたこの階段を
びっこを牽いて歩く君の真理を
支えてくれようもの。

1956

2006/01/25

異なる者

カザフスタンのSF作家ルキヤーネンコ原作の「夜の警邏」(ナイト・ウォッチ) が数年前に映画化され、この春には日本にもお目見えすることになった。監督はチムール・ベクマンベートフ。

ポストソヴィエト期を代表する「ブロックバスター」映画としてロシアではすでにカルト的人気を誇るこの映画に注目したアメリカのフォックス社は、即座にその上映権を買い取った。また、遅ればせながらも、この現象に合わせて原作の日本語訳も去年末に出版されている。そこで今日は、この原作ではなく、映画化された「夜の警邏」をめぐって綴っていきたい。

すでに日本語訳の題名は「ナイト・ウォッチ」となっているのに、敢えてここで「夜の警邏」としたのにはそれなりの理由がある。また、これを簡略化して「夜警」と呼んでも別にいいのだが、この作品には「デイ・ウォッチ」、「ラスト・ウォッチ」、「ドーン・ウォッチ」という続編があるため、第一作を「夜警」してしまうと、その後に続くべきしっくりくる日本語が準備されていないため、バランスが悪い。だから(?)、「夜の警邏」なのである。

さて、映画である。
映画と同様、「警邏物語」に登場するのは「光」と「闇」である。しかし、それはーこれまた映画の成立条件と同じくー単なる前提であるに過ぎない。むしろ、「警邏」の始まりは、この世界を構成し、均衡関係を維持するべく結ばれた二極間の「和議」「合意」が崩れるところに置かれる。もう少し詳しく述べるべきだろう。この世界はその最初から「光」に満たされていたわけではなく、その傍らで「闇」を持ち、常にその両者の間でヘゲモニーをめぐる争いが繰り返されてきたのだが、その二つの力は互いを殲滅することに消尽され、いつの日か両者諸共絶滅する事を悟ることになる。そしてそれ以降、休戦を意味するはずの「和議」が結ばれる。それは、光の領域からは闇の力を、また闇の領域からは光の力を排除するための「警邏」を互いが引き受けるというものであり、それによって勢力の、ひいては世界の均衡を目指すというものであった。ところが、いつの日かこの二つの均衡関係を破る者が現れるーこれが、物語の主役たる「異なる者」である。

「異なる者」の前に「物語の主役」という言葉を置いた。
物語にはその終わりをもたらすはずの主人公がいる(とされる)。「物語」という枠はそれが枠であるかぎりは「終わり」を要請される。あるいは、それを自ら求めすらする。それが救済という形であれ、殲滅という形であれ。だから「物語」があるかぎり、例えば、キリストがこの世界に救済をもたらすためには世界はその終末へと導かれなければならない。これも「終わり」のヴァリアントであり、彼もまた肉と霊に引き裂かれた者=「異なる者」の歴史的典型である(無論、この「引き裂かれ」という言葉には異論があろうが、ここでは境界点に立つ者という意味で受け取って頂きたい。そうでなければ、砂漠での「誘惑」という言葉が持つ意味は決して理解されないだろうから)。

さて、ここでもう少し説明を加えたい。
「異」とは「他」の謂いではない。それはまた単なる化け物でもなければ、肉欲を指すのでもない。それは、光あるいは闇の領域を動き回りながらも、決してどちらにも加担してはならないことを掟とした者たちであり、同時にその二つの間で引き裂かれている者のことである。「異」をめぐる物語は従って、常に二つの力がぶつかり合う境界点に立たざるを得ないという意味での脆い均衡点を維持すること、よって、砂漠における数々の「誘惑」を克服してもなお忍び寄る力(どちらの力かは知ることが出来ない)がざわめく緩衝帯である。

話は少し逸れてしまうかも知れないが、「外交」という言葉は「外」と「交わる」から成り立っている。語源は知らずとも、そこに倫理らしきものの要請を嗅ぎ付けることは出来るだろう。だが、そこに要請されているのは「均衡を破らない」という倫理であると同時に、「譲らない」ために必要な権謀術数であり、そこから次のものが導き出されるー「諜報」である。これはいわゆる「外交」以外の道筋を常に自ら用意しておくための「インテリジェンス」のことであるのだが、この英単語は時に「情報」という無臭性の言葉に置き換えられることがあるが、上の「権謀」を抜きにしてこの「情報」には何の意味もなく、このとき翻訳は芳香剤と成り下がる(Odecolon-traduttore, traditore!)。

映画原論をここで書くつもりはなかったのだが、「夜の警邏」を見ることによって何かが分かるような気がする。それは、最初にも書いた「光」と「闇」の主題をめぐる「異」の倫理と映画の倫理のことだ。

光だけの映画などないように、闇だけの映画もない。分かり切ったことだが、映画に内包された「光を見る」ために、われわれは予め用意された「闇の箱」に放り込まれる。あるいは、進んでその中に入り込む。映画はだから、予め準備されたこの二つの領域の真ん中に立つことをわれわれに絶対的に要請してくるわけであり、それを受け入れることによって映画は成り立つ。ここではまだ解釈は問題ではない。あるいは、解釈はこの「異」の領域を形作る観者である人間がそこに、つまり「異」であり続けることに耐えられないギリギリの状態のことなのかも知れない。確かに、こう言い切ってしまうと少し強すぎるかもしれないが、「解釈」は「均衡を破る」ことなのであり、その意味ではこの警邏物語の主題と同様に、危険な「異なる者」の誕生を常に意味しているのかも知れない。

第一作は他でもない、この均衡を破った「大いなる異人」の誕生譚なのである。そして、それは、危険な「解釈」についての物語ではなく、「解釈」が解釈であるかぎり、そのありきたりな危険の常に生まれざるを得ないことをめぐる物語(警邏は常に巡回する)でもある。