2006/09/29

パツキン


金髪議員...、どうだっていい話、ではある。
下品だが、日本人は金髪に弱い。それと、ピンク色にも弱い。
色町に行けば、この二色がオンパレードなのは理由がない訳じゃない。
この色にはどうしても燃えてしまうのである。
しかし、国会ではいけないということで、ノンという。
だが、黄金というのは富の象徴、つまり、豊かさの証で、何も最初から悪い色ではない。
それとも、駄目だって理由が、子供が真似するってことなのだろうか?
もし、そうだ、というのなら大間違いである。
代議士の真似をすることのほうが、今の世間では人徳に反していることで、
そんな連中の真似をしてるといって、精々仲間からからかわれるのがオチというもの。
したがって、中高生の茶髪・金髪防止策として、是非とも代議士連には率先して毛を虹色のブリーチに染めてもらわねばならない。

どうせ色に拘るのなら、ついでに国連平和維持軍は玉虫色にしてみよう。
ちなみに、自動小銃の配色はピンクでお願い。

2006/09/28

「向うが先に悪事を仕掛けてきたことゆえ...」(メネラーオス)


ささ、皆さん集合、本日より首相就任会見の揚げ足取りの始まり。

いかにも、御仁、先生、諸君、紳士淑女に皆の衆、「思います」というのは世の常、人の常ではござりませぬか。
自信の在る無きかかわらず、「思います」というのであれば、いやそれまでのこと。その御方はそう「思っている」のですから。
「しっかり」という物言いも分かってあげぬとは、それはいかにも不憫というもの。
精一杯の言葉ゆえ、美し・いつくしき「シカリ」との言の葉ゆえ、慈愛をもて見守ろうではござりませぬか。
それでも駄目だというのであらば、実験をしてみても良かろうもの。

すべての「思います」を「存じます」と入れ替え、はたまた、あんこたぷりの「御座候」でも構わない。
あるいは、ペダンチークな調子に替えて、「...だ」「...ならない」「...にしくはなし」「...あれかし」としてもよい。
より奇天烈さがお好みとあれば、「ぶら下がり」の時、画面に毎回映る首相用に「鼻毛・鉢巻き・腹巻き・ステテコ」半透明スクリーンをかぶせて、語尾には「...ナァのだ」「...でイーイのだ」という声を流してみる。そして「シンゾウに毛が生えた」という1秒ごとに点滅する効果的テロップ。

きっとこれで、にわか保守派は震え上がること間違いなしナァーのだ。

2006/09/27

禍々しい日本語


「美しい日本語」促進計画案に関する追記
ー「日本語」科目のビデオ教材には駆除・殲滅すべき禍々しい似而非日本語のサンプルとして「子亀」アンド「親亀」の大阪弁。これは喧嘩のときも、決して相手に殴りかかることなく、願わくば「いつくしき」ヤマテコトバで相手を痛罵するためである。

エスティック・モノノフ


近代教育における「非国語」が国家戦略上位置づけられるのはおそらく19世紀後半あたりのことで、いわゆるそれまでの伝統的「古典教養」がもつ学問的無用性から脱却して、いかにも合理的な視点から導入されることになるのがヨーロッパ近代語である。外国語教育については、本来それが近代国家の産物であるということと国家経済の効率性を結びつけずに考えることは出来ない。例えば、外国語オタクというのはどの時代にも存在するが、彼らが非効率な存在種、つまり生産性に乏しい人種であることから考えても分かるとおり、金持ちであるためしはおよそなく、国家にとっては多分にその存在さえも眼中にはないものである。いかにも、国家にとって国語も含めていかなる言語なども本来は道具の一つに過ぎず、したがって、その普及力とヘゲモニー維持において秀でている言語はとりわけ崇拝されるべき存在なのである。日本語を(そして英語も)まともに喋れない日本人と流ちょうな英語も日本語も話せる日系人とを比べてどちらが道具として使えるかと言えば、当然後者であって、海外において国家を代表する企業が欲しがるのはまさしくそういった道具である。

ところで、「ゆとり教育」ならぬ「さとり教育」という蓮池を出たかと思えば、今度はエスティックブルーのもののふ(Mononoff, Minister of Gaya Sciencia)が新たな具足(=英語必修化)をかなぐり捨ててもよいと言い出した。この政権は美学の祭でもやろうというのだ。あるいは、この先には全世界日本化計画でも推進する気なのだろうか。私が提案したいのは次の点だ。
 ー先ず、国語の古典語教育はこの際止めること。その代わり、「日本語」科目を導入し、作文(表現力・思考力)・リスニング(集中力と忍耐力)・講読(分析力)の三つに下位区分して週10時間の授業を行うこと。こうすれば、どのアジア諸国にも負けない美しい国語を話せるようになる。
 ー当然ながら、ここにはドロップアウトする学生も出るであろうから、その救助策として彼らには、「美しい日本語」を話す東京山の手地域の高級住宅地でホームステイ(事実上の家政婦)を義務づける。「美しい日本」の私たちのためなのだから、決して「箱根より先」に彼らを送り出してはいけない。これは場合によって、ニート対策にも一役買うだろう。
 ー日本国民は五年に一度は「美しい日本語」能力試験を受験すること。不合格者には社会奉仕活動に従事させるか、月給20%分の罰金を科すこと。この収益は年金を賄う財源となり、国庫を潤すことが出来る。

以上

2006/09/26

最後のビールが切れた

この三ヶ月、私は何も書かなかった。何故か。
理由は特にない。だが、今日書くに気になったのは他でもない、
「美しい国」の到来だからだ。

左翼はほどよく国を恨む。と同時に、右翼は国をほどよく誉め殺す。
「両極相通じる」というが、どちらも理性を忘れがちなことをわれわれは忘れていないか。

例えば、中世を論じるに当たってそれを保護しようとするのは、些か現実離れしていることを忘れるなかれ。
また同時に、現代を論じるに当たってそれを非難するのも同じく過去を過ぎた物憂い目で見ていることもお忘れなされるな。

リアルな「ものの見方」はどちらに対しても冷酷である。
中世は、民衆の首根っこを掴まれていなかっただけ自由だ、というのであれば、さもありなん。
だが、そこに見るのはどれも生きるか死ぬかの徒党の群である。The YAKUZA。
誉めるわけにはいかないが、これは伝統ある群像で、決して消えたりしない。

近代になれば、「金、Yokose」と言うのがヤクザなら、「...に金をやれ」というのが組衆(例えば、労働組合、教会)。
多分、ここに違いを見出そうとしないのは、捻くれているだけじゃなくて、正直じゃないからであろう(それとも、愛がない?)。
崇高な気分になるためなら教会・神社があるので行ってみればいい。
金が欲しい奴は、アコギなアコムなど行かず、働けばいい。

美しい国。ああ、美しい国。
生活保護を受けられる、美しい国。
ああ、今日は山口県が誇りでまみれる。