2006/04/21

「社会主義のもとでの民主化」あるいは「V、その名もヴェンデッタ」

私は基本的にはアナルキストなので、こんなことをぶちまけたところで何の得あるいは徳にもならないが、この世界は出鱈目である。
というか、出鱈目こそが世界なのだと言いたくもなる。

例えば、昨日の「社会主義のもとでの民主化」という胡錦涛の言葉を聞いて、ほくそ笑む連中はこの世に五万といるはずだ。
歴史の授業でイデオロギー闘争の終焉とかいってノートをとることほど馬鹿げたことはないのだ、と今更ながら思う。
15世紀から16世紀にかけてのヨーロッパ史を見ると、国家は国家ではない。というか、このような国家の歴史が今もなお確実に延命し、継続しているのだとすれば、国家など最初から特権商人の懐と刃零れした貴族の剣を隠れ蓑にした群盗の雑居楼に過ぎない。つまり、虹色で彩色艶やかなガウディ的構造物の内壁は未だに血まみれで、その外へ出ようとするものは商人でなければ皆犯罪者扱いされても仕方がないのである。時代を超えて存在するのは「エコノミック・アニマル」ならぬ「アニマル・エコノミクス」なのだ。

「社会主義」の蓑笠が未だに「民主化」という屈折した理念なのだとすれば、これを本気に信じ切れる者は永遠に幸福であれ。スターバックを褒めちぎるその前代未聞のチープさを演出しているのは社会主義の方ではなくて、他でもない資本主義である。資本主義はこれまで社会主義世界という舞台を総合演出してきた舞台監督なのだから、今更これを押しつぶすようなことはしない。それほど、商人は馬鹿ではない。植民地思想というものは生かさず殺さずの思想であって、敵を生かしておくことこそが時間節約のための成功哲学である。

「ヴェンデッタのV」は未見だが、イギリスが独裁国家になるというのはそもそも荒唐無稽である。上に見た理屈からして、あり得ない。そもそも、イギリス流経営からしてこれはむしろSFにすらならない。無論、だからSFなのではあるが...まあ、オーウェルのような作家はいるにせよ、彼などインド生まれのイギリス人であるから、そこにあるのはせいぜい屈折したブリティッシュ・アイロニーの一部に過ぎない。いずれにせよ、イギリスが舞台になった時点で、それはイギリスのことではないということだけははっきり言えるだろう。