2007/09/13

Don't make a FOOL of yourself, Free CHINA!

何はなくとも、今はチャイナなのか。
100円ショップがなければ生きていけないわけではないが、ひどすぎる話もある。

先日、トランプをたまたま買う機会があった。
プラスティック製のトランプだ。
安物買いを避けようとしたが、ダメだった。
箱を開けるとナンジャラホイ。
41枚のお出まし。つまり、全部で11枚も足りない。

フリーマーケットでももっとマシだろうと思ったが、
それとも、中国では41枚が正統なカード数なのだろうか。

100円ショップを殿さま商売と呼べないとしたら、これなんぞは足軽商売とでも呼ぶのか。

ちなみに、ジョーカーはしっかりと二枚揃い。
すっかり担がれたぜぃ。

2007/09/01

人は悪ゆえに正気なり


こんな声が聞こえてきそうだ。
「不思議でならないのよねぇ〜。そう、裏金・不正受給が問題になってるけどさ、表金ってのはどうなのよ。
それって、いいわけ? 特定の支援者が払ってるお金って、結局は利益供与に何ないわけぇ〜?」

利益供与とは、商法上の話として考えた場合、総会屋のことがすぐ思い出されるが、赤の他人の人間関係なんてのは、そもそも全て商法的な言葉で片づくものである。つまり、利益不利益のバランスに基づいて人間っつうのは動いている。「金じゃねぇんだよ」との非難もあろうが、利益とは金だけじゃないということを断っておこう。

政治家の裏金とか、不正献金とか、不正受給なんて話が多い。だが、そんなことはどうでも良いと思うべきだろう。
そもそも、政治家は何某かの利益保護を代表する。そこに、裏も表もない。つまり、利益保護を代表する限り、それを貫かねばならない。
「政治汚職」とは、上に言った意味での政治家という職が清貧であるとの幻想の上にしか成り立たない虚言である。
職を汚す、というのであれば、それは政治家業という「業」を全うしていると、私は思う。
思う、と書いたが、それは、その業を全うすることを正しいと言っているのではない。
要するに、政治家は「聖職」ではないと言いたいのだ。

やらせればいい。不正受給していようが、領収書を5回ほど使い回していようが、どうでも良い。
それは政治家職の清貧でないことを彼らが身をもって実証しているのだから。
悪の実証である…悪人正機?(五木寛之じゃあるまいし)

五木寛之で思い出したが、四月の帝国ホテル前ですれ違った。上野公園のジャズフェスティヴァル後の花見のあと、地下鉄経由で六本木を歩いていた時のことである。
悪戯半分で、ロシア語で話し掛けようとしたが、大層べっぴんの編集者風麗人が同伴だったので、止めた。

ちなみに、あの髪型は、闇夜でも絶対分かる自信がある。


「カラマーゾフ、万歳!」

2007/08/24

スカラベの品性

「格調」という言葉を久々に聞いた。
中国からのニュースだ。
またかぁ...とお思いの向きもあろうが、そうではない。
陳腐な「プラスティック・サージャリィ」のお話。

今時は、品よりも品ー物(商品)を売り物にするものであることは3歳の童子でも知っている。
「あれ買って」「これ買って」と泣きつく子供はこの際どうでもよい。
「格調の低い番組」という批判というよりも、中共のオリンピック対策がらみのキャンペーンであろうか。
矢面に立ってあえなく倒れた品に欠けた番組の説明をするつもりは毛頭ない。
ただ、二、三点言おう。

モラル向上キャンペーンにせよ、”顔面粘土”手術(整形)にせよ、全て「表層」面が問題になっている。
少し前の日本のガングロにせよ、美白にせよ、「見た目が9割」にせよ、”即物的”という老人じみた言葉を使う気はない。
寧ろ、そもそもが「唯物的世界」に人間はどっぷりと浸かっているのだということ、
つまり、意識などは所詮、誰にも知られなくてよいもので、二の次三の次の代物だということだ。
「意識を持て」などなどの黴臭い精神論の古いことは確かだが、
「儲かりまっか」的商人意識を持つ気にもこれまたなれず、似而非サムライ節を吹聴して回る気にも毛頭なれない。

つまり、全ては商売ショーバイであり、生き残るためには整形することも辞さないのだ。
これはとりもなおさず、消費者層にまで降りてきた商業主義的サヴァイヴァルであり、
その時、女はマスクで男を騙し、男は金で女を騙す。至って分かりやすい昆虫の世界だ。

スターの顔は昆虫化し、そのわざと歪ませた鈴虫の声で媚びを売る。
駆け出しの少女趣味アイドルは、その媚態で高解像度のスクリーンを一面ピンク色の春にする。

この時代、太陽も転がさぬスカラベである限り、死の後も再生はない。
それはただのフンコロガシであり続けるのみだ

2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。

2007/08/22

アニヤ・ヒドンマーケット


アニヤ・ハインドマーチのエコバッグ完売。私の大好きなエコな話題である。

いつこのバッグが完売になったかなどは知らない。
しかし、日本の代理店のホームページでは「完売」とあった。
エコな時代である。

そもそも、原発がダメだというプロパガンダ以降、図らずも(?)エコ・マーケットは膨張の一途を辿っている。
反原発論者の極論に「どうせ電力消費の大半は東京なんだから、都心のど真ん中に炉心でも何でももっていけばいい」というのがある。
そして、都会人はエコに疎い、だのといった議論になりがちである。農村はそもそもエコなのだと。
しかし、である。東京の人口は、恐らく今では、そのほとんどが田舎者で占められているはずだ。
ドーナツ化の話をしなくても、東京近郊から来る人間の方が、公共サービスをより頻繁に享受していることになる。
どれほど田舎者にエコ意識の高さが見られるかは疑問が残るというもので、一昔前の生活サイクルの話と今のエコの話を混同してはまずい。

昔の農民はエコを相手にしているのであっても、それを儲けにはつなげなかった。
今やエコとはマーケット商品であり、これで商人は財を築くのである。
そこで崇高な理念が掲げられていようとも、それは商人的理念に過ぎず、競争相手も含めた誰もが幸せになるという題目はあり得ない。
エコバッグも然り。

さっそく、プチブルを相手に小銭を稼ごうという人間がオークションという魚河岸でこのエコバッグをさばいている。
9000円程度の値が付いていたが、果たしてあんなロゴの入ったただの鞄を誰が買うのだろうか。

"I'm not a plastic bag."

自然を散々搾取してからに、そのあとはまるで人ごとのように「エコ」である。
その最たる者が自動車メーカーだが、こんな車は売れんだろうなぁ。

I'm not a plastic car, but just drink petronium.

2007/08/20

安全を食わば毒まで


Free China, or China free?

食品安全という見地からか、最近よくテレビでは中国製品を家庭から一掃するとどうなるか、つまり、生きていけるのかという実験をしている。単純な疑問だが、これを中国本国でやってみたらどうなるのか。
無論、生きていけないだろう。
なぜなら、China freeなどは彼らにはあり得ないことだからだ。

ただ、Free Chinaはどうだろうか。つまり、彼ら中国人を低賃金で働かしている外国企業、そしてそれと結託している中国官僚機構から解放するとどうなるか。
これも生きていけないことに変わりはない。

したがって、最初の問い、Free China, or China free?とは、愚問であり、非現実的な問いだということになる。

戦後経ってからのの日本製品もやはり同じく、安物のすぐ壊れるB級品と言われていたわけだが、海外で物を作れなければ、日本人は恐らく不当に高額なものを買わされていたことだろう。中国サマサマなのに、まるで人ごとのような報道が多い。

Made in Occupying Japan

2007/08/14

L'autre bout du monde virtuel N2「自由の館へ」ようこそ


                        緑=自由/黄=そこそこ自由/藍=不自由

L'autre bout du monde virtuel N2

非政府系非営利団体にも色々と毛色がある。

例えば、旧ソ連地域の、しかも地政学的戦略拠点と言える地域で活動するアメリカ系団体「自由の家」。
1941年にルーズベルトの肝いりで創設された非営利シンクタンクだが、その主な支援元は合衆国政府。
したがって、その外交政策には親近性が極めて高い。
その幹事を務めるピーター・アッカーマンはスティーヴ・ヨーク監督の「Bringing down a dictator」の制作にも手を貸しているが、
このドキュメンタリーは各国の学生運動家に見せるためのプロパガンダ用に現在も使用されている政治映画(この模様はフランス人ジャーナリスト、マノン・ロワゾManon Loizeauのドキュメンタリーで確認できる)。

ちなみに、歴とした反ナチ・反共団体でありながら、民族分離の巨壁を立てるイスラエルに対するその年次評定は「ランク1」(=自由な国)。このような怪しい資料が議会などで利用されるのを見て、非政府・非営利という言葉に違和感のない者は恐らくいないだろう。

そのミッションは次のように宣言されている:
「「フリーダム・ハウス」とは、世界における自由の拡大を支援する独立系非政府団体である。自由が可能であるのは唯一、政府がその自国民に対して責任を負う民主的政治システムにおいて、法の支配が広く行き渡り、表現・連帯・信仰の自由、さらにはマイノリティや女性の権利が保障される場合においてである。
自由は最終的に、率先して事に当たる勇敢な男性・女性の行動にかかっている。われわれは非暴力的な市民のイニシアティヴを、自由が否定されていたり、あるいは脅威にさらされている社会において支援し、すべての人々が自由である権利を脅かそうとする思想や勢力に反対する。フリーダム・ハウスは、分析・擁護・さらには行動することを通じた自由・民主主義・法の支配のための触媒として機能するところのものである。」("Mission statement")


http://www.freedomhouse.org/template.cfm?page=1

2007/08/11

プリゴフに関する誤報

共同通信社が伝えたプリゴフの死に関する誤報。

前衛パフォーマーで詩人でもあったプリゴフが先日亡くなった。
1940年生まれの彼は来日もしたことのある人物で、本国では教え子もいる。
ただ、その彼の評判を鵜呑みにするのは、あちらの事情に疎いか、贔屓目であるからだろうか。

パフォーマンス、ハプニングというものにとって、個人の死は最大のパフォーマンス、
つまり、それが本来創作し得ないものであるが故の絶頂であるとさえ私は思っている。
共同通信は何故か、その絶頂について述べてもいなければ、誤って彼が「10日前から入院していた」
(そしてそこで死亡した)と報じているが、この記事は裏を取っていない。
彼は一人で何もせずに病院で亡くなったのではない。
教え子たちのグループ「戦争」と共にその日は、ヴェルナツキー通りにあるモスクワ大学大学寮の22階までタンスの中に入ったまま
昇り、そこで猥雑詩を絶叫するパフォーマンスが行われるはずであった。
しかし、その22階に上がっている最中、タンスの中で持病の発作が起こったのである。

パフォーマーにとってはこの最期が報じられないのは、遺憾であったに違いない。

ちなみに、彼の葬儀費用に4000ドルを集めるチャリティをアントン・ノーシクがブログサイト「ライヴ・ジャーナル」で始めたのだが、これが一種のスキャンダルになっている。このチャリティ自体がではなく、これを不可解なキャンペーン(彼にはロンドンに地所があること、その彼に4000ドルなどは端金だろうということ、そもそもそんな人間に葬儀代を集めるのは寧ろ非礼であるということ)だと取り上げた作家ガルコフスキーが、あるウェブ出版所との契約を突如打ち切られ、それが大きな波紋を広げていることだ。

しかし、これこそがプリゴフ最後のパフォーマンスだったのだと考えれば理解しやすいのだが、生真面目な連中は亡くなった彼の死を悼むことにマジメ過ぎて、プリゴフが誰だったのかを見失っている。

詩人は人間か、作品か。
少なくとも、ただの人間であるとは言い切れない。

2007/08/08

"L'autre bout du monde virtuel" N1


新シリーズ" L'autre bout du monde virtuel"

この世の中には一見しただけではその本体のよく分からぬ「キメラ」的事物が多く存在している。
そのことはネット世界にも反映される。

社団法人 機動隊員等を励ます会
http://www.hagemashi.com/index.html

法人化する意味がどこにあるかは皆さんに考えてもらいたい。
単なる後援会としての存在意義云々ではなく、社団としての法人格を社会に認めてもらう必要がどこにあるのかということを。

Always look on the bright side of death



数年前に「パッション」が世界上映された時は、この「ライフ・オブ・ブライアン」が世界各地で再上映された。
「奇跡の丘」や「パッション」を見てから「LOB」を見る人には、ただの聖書もののパロディにしか見えないだろうが、さにあらず。
再上映の経緯は、冒涜的だということから当時DVD化されていなかったということもあるが、この映画をPythonsはマジに作っていたことが一番重要。

「コメディからは何も新しいものは得られない」とジョン・クリーズが最近語っていた。しかし、われわれが彼らの作るものから得るものは少なくない。少なくとも、彼が「日常を笑っても新しみもなにもない」、つまり「新たな発見に乏しい」というとき、それならば、生全体を笑いの坩堝に叩き入れることで、生の淵を垣間見てやろうという意志を持ち続ける必要があるのだろう、と私は感じる。

だから、鬱になっている暇はない。関係ないわけではないが、朝青龍よ、君は笑えないな。

Always look on the bright side of life

words and music by Eric Idle

Some things in life are bad
They can really make you mad
Other things just make you swear and curse.
When you're chewing on life's gristle
Don't grumble, give a whistle
And this'll help things turn out for the best...

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing.
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps
Just purse your lips and whistle - that's the thing.

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

For life is quite absurd
And death's the final word
You must always face the curtain with a bow.
Forget about your sin - give the audience a grin
Enjoy it - it's your last chance anyhow.

So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath

Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true.
You'll see it's all a show
Keep 'em laughing as you go
Just remember that the last laugh is on you.

And always look on the bright side of life...
Always look on the right side of life...
(Come on guys, cheer up!)
Always look on the bright side of life...
Always look on the bright side of life...
(Worse things happen at sea, you know.)
Always look on the bright side of life...
(I mean - what have you got to lose?)
(You know, you come from nothing - you're going back to nothing.
What have you lost? Nothing!)
Always look on the right side of life...

2007/08/05

押し問答とは公案にあらずして、公安の謂なり。Aum...



Jay, Guru, Deva,...Aum.
Nothing is gonna change my world.
職務質問は「任意」であるゆえ、何ら警察権力による拘束力も発動されない。
したがって、もしもこれを妄りに振り回す公安を前にした時には、
その姓名を尋ねた上に、職務権限を逸脱している旨を知らしめることわれわれの救われる道なり。
南無。

2007/07/27

ロウソクを垂らされた睾丸に鞭(略して「厚顔無恥」)


私は知らない。
農水省大臣の事務諸費や領収書やレジシートを誰が水増ししたり誤魔化したりしたなんて、当然知らない。
見え透いた嘘を「仕方ない」なんて言って済ませる国民なんて知らない。

明日は選挙日。
そんなこと知らない、なんて言う奴なんて知らない。

ニッポン、蛮罪!

日本は抑圧国家である。
しかも、陰湿さと愚弄さに満ちている。

仮に、飲酒運転で検挙されたことで、仕事を自粛しなければいけないというのをもっともな話だと思う人間は
立派な日本人である。
だが、同時に、立派な人間だとは言わない。

人前で泣きべそをかいた後で、仕事をキャンセルするというのはどういうことか。
ケジメという言葉もいかがわしい。責任を逃れるための、客観性を欠いた適当な口実である。
それが日本の責任の取り方なのだ。それは何よりも、必要以上の抑圧を避けるための口実であり、
それゆえ、客観性を欠いているのだ。

織田君が泣きながら弁明をしていた。毒でももられるのではないかというほどの涙だ。
彼は悪いのだろう。だから、ベソもかいたのだろう。
だが、この抑圧はどこから来るのか。自民党か?民主党か?共産党か?国民新党か?社民党か?(最後のは無さそうだ)

戦前戦後はサーベルか鞭を腰に付けた教師が教室を我が物顔で闊歩していた。
この種の抑圧は消えた、のだろう。
しかし、この権力というのはいかにも巧妙であり続ける。
どこに身を隠したのか、と思うほどに至るところに機動し続けている。
人が人前で泣くとはどういうことか。
また、それをメディアで流すとはどういう事か。
そして、その現場を前にして、カメラをパシャパシャする輩はどういった奴らか。

考えるべきことが多すぎる、この惜しむジャパンの時代にも。

ニッポン、蛮罪!

2007/07/23

Contra personas Micropterorum

人柄、つまり、言い換えれば人格を攻撃することが政治闘争の合理的な手段であるかどうかは知らない。しかし、政治家の人格攻撃によってダメージを与え得るということ自体は紛れもない事実である。

そもそも、政治家に人格者が選ばれるということは絶対条件などではなかった。土地を持ち、つまり、自らの支配する領土を有する者たちが政治に手を染めるのが習いであったのだ。しかも、そこにエリート学歴などが物を言う余地などはなかったのであり、これが一般化するのは議会制イギリスにおいても19世紀後半のことである。それゆえ、政治家業とはそもそも金策に困る者がなる職種ではなく、支配の術に長けた者がなる貴族的な職業である。
それが、民主社会と呼ばれる時代には貴族的職業は流行らなくなる。が、政治家業が無くなるわけでは無論なく、支配の術だけでは人を酔わすことは出来なくなる。そこに“人格”というマジカル・ワードが登場する。この時代、民衆からすれば貴族的であること自体が一つの抑圧のシンボルであり得、しかも、それを払拭するためには政治家は常に”有徳”を口にせねばならないが、政治家に人格があったとて、金がなければどうなるか。その答えは誰もが知っていよう。五万円以下の領収書をゴマンと切って、政治家を支えるという半ば裏社会との密約だ。この日本の政治がもつ透明度、これはせいぜい、外来種ブラックバスに湖沼を荒らされた琵琶湖のそれに過ぎない。こうなると、現今の政治家はブラックバスに似はじめ、人格など攻撃する意味すらなくなってくる。ブラックバスのエサ代こそは、かの「花代」が象徴しているではないか。政治家に人格を認めるか、それともブラックバスに人格を認めるか、さあさ、お立ち会い。

2007/07/19

青銅時代

”産経”テレビが昨日、何故か未だに「ゴールデンタイム」と呼ばれ続けている時間帯のバラエティ低迷を分析した。

その結果はすでにネット上でも知られているところだが、テレビに飽き飽きしている人間がこの世に五万といることがある程度伺える。

無論、ネットの言論が世論すべてを反映しているわけではないし、かなりの偏向もある。しかし、だ。どうやら、このテレビの白痴化は社会の白痴化と連動していることはまず間違いないし、言語能力の低下も直結していることを考えれば、日本だけが抱える危惧でもなさそうだ。

私がよく見るロシア系テレビでは、いわゆる「セレブ」がボクシングをする見せ物がある。流行っているのかどうかは不明だが、第一チャンネルというプーチン直下の局だ。セレブといっても、少し日本とは毛色が違うので、「インテリ」と言い換えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、立場を入れ替えれば、相撲取りが国際情勢を論じたり、原子力発電の原理を解説するような、まるで無謀な番組を見せられているようなものである。

日本の事情は多少違うとはいえ、弁護士がマラソンをするところを「愛」のオブラートに包んで見せられたのを思い出せば、さほど違いはないようだ。

専ら、テレビはビデオ観賞用にすればよいのであり、そう考えれば、もう以前から家庭娯楽専用へと活路を見出していたのだ。
そもそも、テレビは勝手にやっているわけで、その影響を語るならば別だが、その勝手にやっているものを「ああしろ、こおしろ」と言ってみても意味がないのだ。しかも、そこにはPR(パブリックリレーションズ)が屋台骨を支えている。もし、テレビ批判をするのであれば、先ずもってこのPRを通じて資本を膨らませようとしている企業体に矢を向けるのがコモンセンスであるべきだろう。そしてさらには、「くだらない」と言いながらも不必要な消費をまんまと煽られている視聴者自らが自嘲的であることも必要だろう。

テレビの「窓」に目をやることに飽きた連中は、ネットの「穴」でデバガメ精神を養う。その連中にゴールデンなど興味はない。
好きな時に好きなだけ覗き見出来るネットだからこそ、YouTubeもグーグルアースも成立可能なのだ。

軍事衛星風デバガメ「ブロンズタイム」の到来である。ここに喜びは無論ない...

2007/07/07

ボは亡国のボ



善意を狩ることをグッドウィル・ハンティングと呼ぼう。
あの、昔話題になった映画の題名と同じだが、無関係だ。
派遣労働からのピンハネに対して、日雇い労働からのピンハネは約4・5倍以上に上る。
単純に、日雇いの善意狩りから得られる不労アガリ(風呂上がり)は、4割5割である。
これを肥やしにグッドウィルは善意を狩りつづける。

無論、これは労働基準法に準拠したやり方であるので、彼らは飽くまでも法によって裁かれることはない。
しかし、誰が見ても「グッドウィル・ハンティング」である。つまり、足元を見ている。
どんなピンハネがこの世に跋扈しているのか、丁稚奉公でもあるまいし。

概して、今の行政制度改革というものがいかに生温いかをよく知れと言わんばかりに、官僚機構の奇行ぶりは度が過ぎている。
一層のこと、ヴォランティア組織に改組してしまう方がグッドウィリングな人たちには適っている。
公務員には釜出しの手伝いを本業にしてもらい、それに対して給与を出す。
一方、釜出しの食事に与る人たちが公務員の仕事をヴォランティアで行う。それに対してはネットカフェを無料開放する。
今の理想的な国家像がこれだと訝る人も多かろうが、しかし、そこまでこの世界は疲弊している。
公僕は亡国の謂なり

2007/07/02

日系余生



酷な話をしよう。

先ず、私は原爆体験者でもなければ、好戦論者でもない。
そして、自民党支持者でもなければ、共産・社会主義者でもなければ、さらに、民主党支持者でもない。

政党政治家というのは一個の人格であることを越えて、一つの鋳型に塡められることを甘んじる故に政党政治家と呼ばれる。
これは一介の聖職者が時流に任せて遵守すべき教義を勝手に解釈できないのと同じで、それがイヤならば政党を離脱するしかない。
そして、彼を選ぶのは国民であるが、彼が彼自身の言葉を選ぶのは国民ではない。その意味で「しょうがない」というのは勝手な話ではあるが、「しょうがない」。となると、このしょうがない政治家をどうするかはわれわれの責任である。お咎めを受けることが分かっているような発言をすること自体、そこにその理由を探す必要はあろうが、人格攻撃の意味は皆無であろう。なぜなら、彼は「しょうがない」政治家なのだから。そして、その彼をまたぞろ支援するようなことになるとすれば、これまた「しょうがない」選挙民なのであろう。となると、誰が悪いのか。人格の崩壊しつつある政治家を堰き止めようとする一部の選挙愚民か、はたまた、人格を専ら必要とせず、一部の民の愚弄さを利用する政治家か。

正直な話、私は離党する党のない身分であり、日本がこのままでありつづけるのだとすれば、日本を離れるべきなのかも知れない。日本国憲法の素晴らしいところ、それは、誰も日本を離れる者を引き留めることは出来ないことを保証していることだ。

いっそ、ペルーにでも出稼ぎに行って、政治家にでもなろうかと思う。

2007/06/28

法ホウほう




ビリー隊長が偽善者であることは誰も否定できないはずだ。
なぜなら、もし自分が本当に良いと思うものならば、それを無償で人に分けようとするのが善人の筋だからだ。
だから、偽善者なのだ。しかし、彼が「悪人」といっているわけではない。そこは間違ってはいけない。
善人と偽善者の違いは分かるが、悪人と偽善者は混同されやすい。

偽善者は世に五万といる。例えば政治家たちだ。だが、彼らを悪人と切り捨てることは出来ない。
なぜなら、候補者という名目で選ばれた連中であり、われわれ選挙民は自らの善意を彼らに引きずらせているからだ。
では、本当の悪人とは誰のことか。

例えば、法の裁きの下で有罪になる者などは悪人だろう。しかし、冤罪の確定される前の人についてはその限りではない。
この三日間行われてきた光市母子殺害事件の裁判における弁護人をその政治的活動への傾倒を理由に断罪する声があるが、立法の現場における被告側弁護士による政治活動をもってその根拠としている評論家連中、さらにはそれに煽られるマスコミの挙動が見られるが、立法の現場で政治的活動が見られたことがないと考えることほど、その立法に対する稚拙な態度はない。
立法に政治がかかわらないとする根拠は、おそらくは三権分立の原則であろう。

しかし、そのような原則が政治という超越的だからこそ生臭い”生物”を前に、果たして機能すると考えることはどれほどわれわれの救いになるのか。死刑を許す許さぬの問題は別である。しかし、仏教徒の法務大臣がその座に鎮座しているあいだにどれほどの死刑執行がなされたか。ほとんど皆無に等しい。ということは、そこに政治がすでに介在しているということである。

つまり、法律を超然たるものとみなすことは許されないし、許してはいけない。ということは、そこに政治が非政治的な装いで常に自らのレパートリーを演じるのが常なのだ。したがって、そのような現場においては政治的な手段をもって闘わねばならない。さもないと、立法の仮面の政治がその自らの姿全てを立法化するだろう。政治は立法となろう。立法に頼れない現場で、立法に対して法で対抗するのは自らの無効力を晒すことにしかならない。よって、裁判法廷中での政治運動を許し、自らもその中で政治化することこそが最短距離であろう。弁護士側への人格攻撃など無用なのだ。法に人格など知りようがないのだから。

2007/06/23

誤認囃子


ヤフーのトップページには次のようなPRが並んでいる。

流行ビキニで視線くぎ付け
夏はハワイアンジュエリーで
キャミワンピースで涼しげに
足下かわいいビーチサンダル
サングラスでいい女度アップ
自宅で手軽にツルツルお肌
イオンスチーマーで美しく
あなたにもできる、ネイル術
夜は浴衣で雰囲気チェンジ
夏の恋、必勝お泊まりデート


ほほぉー、である。
ソフトバンクは「泥濘の堤防」とでも呼ぶべきか。

そもそも「PR」とは、文字通り”パブリック・リレーションズ”のことである"はずだ"。
しかれば、日本でもゲッペルス・システム満載の大政翼賛的リレーションがこのよなPR企業によって作られている。
この手の公共の「リレーションズ」が、捏造とは言わないが、それでも、虚構間近に近いものとして作られていることは間違いない。

誰の口から上に列挙したような娑婆娑婆で禍々しい言葉が吐き出されるのか。
例えば、「クールビズ」に絡めたエゴイスティックなエコ広告(というか、エコロジカルなエゴ広告)も同列だ。
今更、誰が電気の消し忘れを広告にするセンスを持ち合わせていようか。
こんなこと、ダメオヤジが鬼婆にケツを捻られたすえに、渋々自分のこれまたダメ息子に良い格好を見せてるようなものだ。

PR会社のことを日本では何故か”広告代理店”と呼ぶ習わしがあるが、しかし、何の代理なのか。
ここで川柳一句、

「内裏様、誰のダイリと問われれば、肝入り腑抜けの代理様」

専らのところ、平日はエコを訴えて、憔悴の休日はパチンコに精を出す吾人の代理なのだろう。
やっぱり、エゴロジーである。

2007/06/22

無差別撤廃




将来、男女均等社会というか、それ以上に、男女無差別社会が訪れるのもそう遠くない、と想像することに大して喜びも悲しみも感じないにせよ、物事というか、モノを混同するのが嫌いという人は多いし、それを見ていて違和感を抱くことも少なくない。例えば、豚肉と牛肉をミンスして混ぜ合わせたものを「合い挽き」といい、また、男と女のデートも発音上は同じく「逢い引き」という。一つになることが分かっている分には違和感はない。しかし、この二つを引き合わせる訳にはいかないマッチョの世界では「男」は「男」であって、「牛」は「牛」である。同じ餌を食べていても、豚小屋の臭いは牛小屋の臭いとは違うし、その肉の味が違うのも確かだろう。グルマンの跋扈する世の中に、どれだけの潜在的味覚障害者がいるかは知るよしもないが、ミンスして逢い引きさせた肉弾二銃士を誰が顧みるのかには興味ある。コープはさっそくこの単性肉を装った「逢い引き銃士たち」を商品棚から撤去。消費者という圧力こそがバネの生協にとっては、当然の措置だ。警察も黙ってはいない。ただ、これは不正競争を防止し、嘘をついてはならぬというお題目の上で動いている。

しかし、そもそも、動物には言葉が具わっていない。自分が牛だの豚だのと自己申請することも出来なければ、生物学上牛でも豚でも、人の見た目が牛豚であれば、牛豚と呼ばれてしまう。これをもって、人間は冷酷だとは言わないが、男女の性差にしても同じことが適用されるのをわれわれは知っているし、未だに「性同一性障害」というおぞましい医学用語をレッテルに持つ人が「社会的」に抵抗する姿も目にする。彼らへの眼差しは、この「逢い引き銃士」として偽装ミンチを駆逐する者たちの視線と交差しているとも見える。全くもって牽強付会だが、今度の事件を逆に同性の「逢い引き」励行だととれば、少しは気分は晴れるのか。

2007/06/19

ドクトル・メフィスト


ほとんど20年ぶりに歯医者の門を叩く。
この世から殲滅されても少しも惜しくない歯科医院が
家の近所で最近増殖を繰り返し、ずいぶん前から僕の大事な「親知らず」を狙っていた。
初診の今日は、問診ではっきりこう答えてやったー「歯医者なんか絶滅すればいいんですよねぇ〜」。
すると、奥には僕とさほど年の変わらない「先生」の影がチラッと見えたが、その時彼が苦笑いしていたかどうかは、あの不敵な白マスクに隠れて分からなかった。

以前、呼吸不全でバスを飛び降り、タクシーに乗って近くの総合病院に向かったことがあった。
ただ、その時は運悪く、急患を診てくれる医師がおらずに、たらい回しにされた。
別の病院を紹介してもらった都合、そちらに向かわざるを得なくなり、やむなくまたタクシーに飛び乗る。
でも、気持ちは飛び乗るという言葉とはまったく違い、実際のところは、ひどく懐具合が心許なかったため、呼吸のことなどすっかり忘れ、タクシー代と診療代のことで頭が一杯に。
それでも、結局は「まな板の鯉」は鯉である。というより、懐具合からすれば、せいぜい僕などフナ程度である。
いつもこういう状況が僕を取り巻くと、自分のことを「フナ」だなんだといって卑下しながら、死に神さんに睨まれないようにしているのだ。
いくら喋った所で、捲し立てた所で、看護婦を笑わせた所で、何にも変わらないんだが...
つまり、不安な時は饒舌になるのが人の性なのだろう。今日も同じことを口走っていた。

ちなみに、今日は偶然にもドラマティックな舞台設定だった。
「ファウスト」の第五幕で、これから博士が昇天する直前のところを読んでいたところだった。
勿論、僕にとってメフィストは初対面の歯科医。小さな頃から死ぬほど恐れていたデンティスト=メフィスト。
そして、数十分後。右奥歯の親知らずか子知らずかの歯の抜歯準備開始。
このあたりになるともう現実感が圧倒的で、「ファウスト」がオーヴァーラップすることもなかったが、
それでも、歯の根っこだけは違った。
すんなりと抜けるのかと思いきや、それはまるで性懲りもない魂のように、肉を?んで放そうとしない。
その根っこは文字通り、「豚の蹄」のように三叉に分かれ、歯肉に食い込み、しがみついていたのである。
ファウスト博士には天使たち・マリアたちがついてくれてたが、僕についているのはせいぜい国民健康保険。

ファウストも「3割負担」じゃ昇天するまい。

2007/05/04

”世界を征服するだがや”



どんな受精卵細胞でも、最初に成長して出来上がるのは”口腔と肛門を繋ぐ管”であることは知られている。

それぞれインプット・アウトプットという機能に応じた筋肉をもち、インプット部(グルメ部)には食を楽しいものにするべく、否、より正確には、有毒かどうかを最低限見極める嗅覚器官がその真上には付いているが、アウトプット部(ダッシュボード部)には付いていない。ニコちゃん大王など知っている人も少ないだろうが、ニコちゃん星人は例外である。なんか、このクラブ活動のような響きをもつ器官には、オヤジギャグ風に言えば、大”活躍”をする”括約”筋があり、結構思う通りにも動かせる。余り動かしすぎると第4サティアンでヨガをやっているような気分になり、空中浮遊出来る錯覚に陥るが、そんなことはどうでもよい。

口腔も肛門も、元々は同じDNAが絡んでいる。
局所的に必要な遺伝情報が選び出されたからここには鼻が付かなかっただけの話で、もしこの遺伝子コピーにかかっている制限が緩和されれば、原理上、鼻だって付けられる。アウトプット部に待望の”鼻の新入生部員”入部である。

だから、と、ずいぶん強引な論理だが、最近話題の著作権違反というのはこの”新入部員”の入部のことであり、この違反(違法コピー)が簡単になった今の世の中でその国際的取り締まり強化を訴える”先進国”にとって”鼻の新入部員”は”目の上の瘤”ならぬ、”ケツの上の鼻”なのである。”先進国”と言ったが、何も進んでいるわけではない。ただ単に、市場原理でコピー制限をかけているだけの話で、知的財産原理主義者が出てきたら、それこそ「文字」にも制限がかかるはずで、これなら”先進性”を叫んでも私は文句は言わないだろう。

”ヒューマンネイチャー”という古くて新しい言葉を思い出そう。日本語に訳せば”さが(性)”とでもなろうが、どうしても変えられない、変えようものなら精神が恐慌を起こしかねないことを指す言葉だ。肛門の近くに出来た”風邪のハナ”だって、”楽しければいいジャ〜ン”といってしまえばそれまで。本来のネイチャーならば、これは”遺伝子異常”だが、ヒューマンになると”知的財産権侵害”であり、また、人間の性を裏にとった行為は”詐欺”ということになる。

しかし、この侵害にせよ、詐欺行為にせよ、線引きは難しい。
例えば、中世までの文学と近代以降のそれとの大きな違いは、口承性の度合いの相異と作家の特定可能性だとでも言えようが、それにしたところで、「文字」という人類の一大発明品にまでこのパースペクティヴを適用すると、漢字を使っているわれわれがこの知的財産を無料配布された上に、日々無料で使っていることを考えれば、すでにそれが知的財産だなんてことを忖度すらしない。だから、精々、問題になるとしても、正しい書き順とかくらいで、それ以上のことで文句は言われない。

空想がいささか過剰だが、個々の漢字の発明者がその所有権を主張しようものなら、一文字毎に登録商標がついて読みにくくて仕方がない。ソフトが市場化する時代だからこそ、この”コウモンのハナ”ももぎ取られるわけだ。

ところで、私は中国が好きだ。ヘドが出るほど好きだ。
コピーがいけないことって分かっているけど、コピーしていないって言い張るあの勇気が好きだ。
みんなでミッキー・チナ・マウスを、そしてミッキー・チナ・プーを楽しむことが望まれる。なぜなら、あれがミッキーでもプーでもないことは明らかだからだ。チナズム万歳。

追記
オーソン・ウェルズの『フェイク』という映画での1シーンを思い出した。
エルミアというユダヤ系ハンガリー人贋作画家が「ピカソ」をカメラの前で書き上げ、パイプのライターで燃やすシーンだ。
そして、彼のモットーは「サインは偽造しないこと」。
だから、彼の作品が流通可能であるその前提は共犯者がいるということであり、これが彼の逃げ道。

チナストも、だから、国際メディアの前で非難に晒される前に、チナニー・ランドを全焼させてしまえばいい。
あと、観光客は共犯者にならないために、どれだけ楽しんだとしても、「ケッ、つまんねえ」と言ってみること。

2007/02/07

今日の煽柳


今日の川流れガッパ
「柳の枝をひょいっと引けば、散切りカツラがずれ落ちる」

民主党の肩を持つ気などこれっぽっちもないが、こんなズラ大臣言うことをマジに受け止める方が馬鹿を見るし、前言撤回などさせてはならない。そもそも、「大臣」というのは王に服従する家臣団の長のことを意味する。しかも、われわれが選んだわけでもないのであれば、その人間の発言をわざわざ訂正させるようなことをしても意味が無く、不毛である。直接、彼の言葉を今の皇太子一家に結びつけて考えればよい。大きなお世話、と言われるだけだ。早い話が、こんな田舎者に向けてここぞとばかりに非難の矢を放ったところで、国会審議に貴重な時間を費やす方だけでこれまた馬鹿げている。詰問などせずに、糊が乾いてズレ落ちたカツラにこちらからわざわざ糊など買ってきて渡すような真似などせず、そのままハゲチョビンでいさせればいい。そうしたら、世間じゃこんな噂が流れる:

「あいつも禿ときてるから、きっと、アイツは絶倫だぜ。ははは、産ませる機械ってか」

2007/01/26

改名パピヨンチョコレート


「蛙ゲロチョコ」というのがある。
といってもこれは、とある旧大英帝国コメディの中でのネタ。知っている人には何のことだかすぐ分かるはず。
でもって、旧大日本帝国では口の中でとろけるアンバー風鱗翅類チョコレート(パピヨン・チョコ=略してパピチョ)が流行のようである。食べた人には何のことだがすぐ分かるはず。

このパピヨンチョコに「害は無い」といってのけたことを今更ここでどうのこうの言っても仕方なく、このパピヨンをヒョイと抜き出して金よこせと恐喝して地に落ちてしまうのも情けない。だから、皆さん、ちとでも思いついたらおよしなさい、そんなことは。またとない「当たりくじ」を引いたと思っておけばよい。

どうせ、こんな企業はいずれ、甘露飴の如く輝く慈悲深きわれわれの記憶の中で「蛾」のように硬直してしまうのだから。

われわれの身体は驚異に満ちている蛾、目に見えるものには案外疎い。
自分の顔をいくら洗ったとしても、微生物・細菌だらけだ蛾、美人を見るとそんなことも忘れて、束の間呆然となる。
自分についているものは、ひと先ず「無害」だというわけだ蛾、これは大きな間違いである。

話は全然違う蛾、全体主義というのはこの完全処理の不可能な細菌を取り除こうとするオーバカな政治体制であって、基盤そのものからして、細菌がある程度くっついてるからこそ保湿可能な顔のようなもので、そこにファンデーションを塗りたくろうってんだから、もっぱら体制不全の上に成り立っている。

今どきの日本をトータルに結束するものはない蛾、事ある毎に国旗掲揚・国歌斉唱というのもいい蛾、それ蛾「ヤダ」という連中を捕まえて減俸だとか免職とかいうのは芸蛾ない。どうせならば、「せめて鼻歌でも歌っておくれ」と頼み込むの蛾旧大日本帝国臣民の筋である。多分、唱いたくない連中は「千代に〜♪八千代に〜♪」蛾気に入らないのだろうから、「ニノニ〜♪ナニノニ〜♪」とホノグラムを流してやる。格好のよいものではない蛾、お経のようで和むにちがいない。ちなみに、新しいロシアじゃ、国歌の歌詞も新しいから誰も覚えてない。だから、国民規模のホノグラムみたいなものだ(モスクワの町には看板があるー「みんなで国歌を覚えましょう」)。

人間は「勘違い」するものである。企業はこの人間の塊で、昆虫みたいな顔をしていても人間には似ていない。そして、この勘違いを何度も繰り返しても、「勘違いどころじゃない!」と騒ぎ立てるのは人間の方で、この人間相手の商売が出来ない昆虫集団はいずれは全滅するのである。ただの「間違い」となり、これが嵩じてはもはや世間では「気違い」ということになるからだ。

外野からは「こんなの間違っている、おかしい、ちがう、ちがう!」とマス人間的正義の声が叫び続ける。でも、これにも「が」が混入している。人間の顔をした昆虫の鳴き声が紛れ込んで。