2007/07/27

ロウソクを垂らされた睾丸に鞭(略して「厚顔無恥」)


私は知らない。
農水省大臣の事務諸費や領収書やレジシートを誰が水増ししたり誤魔化したりしたなんて、当然知らない。
見え透いた嘘を「仕方ない」なんて言って済ませる国民なんて知らない。

明日は選挙日。
そんなこと知らない、なんて言う奴なんて知らない。

ニッポン、蛮罪!

日本は抑圧国家である。
しかも、陰湿さと愚弄さに満ちている。

仮に、飲酒運転で検挙されたことで、仕事を自粛しなければいけないというのをもっともな話だと思う人間は
立派な日本人である。
だが、同時に、立派な人間だとは言わない。

人前で泣きべそをかいた後で、仕事をキャンセルするというのはどういうことか。
ケジメという言葉もいかがわしい。責任を逃れるための、客観性を欠いた適当な口実である。
それが日本の責任の取り方なのだ。それは何よりも、必要以上の抑圧を避けるための口実であり、
それゆえ、客観性を欠いているのだ。

織田君が泣きながら弁明をしていた。毒でももられるのではないかというほどの涙だ。
彼は悪いのだろう。だから、ベソもかいたのだろう。
だが、この抑圧はどこから来るのか。自民党か?民主党か?共産党か?国民新党か?社民党か?(最後のは無さそうだ)

戦前戦後はサーベルか鞭を腰に付けた教師が教室を我が物顔で闊歩していた。
この種の抑圧は消えた、のだろう。
しかし、この権力というのはいかにも巧妙であり続ける。
どこに身を隠したのか、と思うほどに至るところに機動し続けている。
人が人前で泣くとはどういうことか。
また、それをメディアで流すとはどういう事か。
そして、その現場を前にして、カメラをパシャパシャする輩はどういった奴らか。

考えるべきことが多すぎる、この惜しむジャパンの時代にも。

ニッポン、蛮罪!

2007/07/23

Contra personas Micropterorum

人柄、つまり、言い換えれば人格を攻撃することが政治闘争の合理的な手段であるかどうかは知らない。しかし、政治家の人格攻撃によってダメージを与え得るということ自体は紛れもない事実である。

そもそも、政治家に人格者が選ばれるということは絶対条件などではなかった。土地を持ち、つまり、自らの支配する領土を有する者たちが政治に手を染めるのが習いであったのだ。しかも、そこにエリート学歴などが物を言う余地などはなかったのであり、これが一般化するのは議会制イギリスにおいても19世紀後半のことである。それゆえ、政治家業とはそもそも金策に困る者がなる職種ではなく、支配の術に長けた者がなる貴族的な職業である。
それが、民主社会と呼ばれる時代には貴族的職業は流行らなくなる。が、政治家業が無くなるわけでは無論なく、支配の術だけでは人を酔わすことは出来なくなる。そこに“人格”というマジカル・ワードが登場する。この時代、民衆からすれば貴族的であること自体が一つの抑圧のシンボルであり得、しかも、それを払拭するためには政治家は常に”有徳”を口にせねばならないが、政治家に人格があったとて、金がなければどうなるか。その答えは誰もが知っていよう。五万円以下の領収書をゴマンと切って、政治家を支えるという半ば裏社会との密約だ。この日本の政治がもつ透明度、これはせいぜい、外来種ブラックバスに湖沼を荒らされた琵琶湖のそれに過ぎない。こうなると、現今の政治家はブラックバスに似はじめ、人格など攻撃する意味すらなくなってくる。ブラックバスのエサ代こそは、かの「花代」が象徴しているではないか。政治家に人格を認めるか、それともブラックバスに人格を認めるか、さあさ、お立ち会い。

2007/07/19

青銅時代

”産経”テレビが昨日、何故か未だに「ゴールデンタイム」と呼ばれ続けている時間帯のバラエティ低迷を分析した。

その結果はすでにネット上でも知られているところだが、テレビに飽き飽きしている人間がこの世に五万といることがある程度伺える。

無論、ネットの言論が世論すべてを反映しているわけではないし、かなりの偏向もある。しかし、だ。どうやら、このテレビの白痴化は社会の白痴化と連動していることはまず間違いないし、言語能力の低下も直結していることを考えれば、日本だけが抱える危惧でもなさそうだ。

私がよく見るロシア系テレビでは、いわゆる「セレブ」がボクシングをする見せ物がある。流行っているのかどうかは不明だが、第一チャンネルというプーチン直下の局だ。セレブといっても、少し日本とは毛色が違うので、「インテリ」と言い換えた方が良いかもしれない。いずれにせよ、立場を入れ替えれば、相撲取りが国際情勢を論じたり、原子力発電の原理を解説するような、まるで無謀な番組を見せられているようなものである。

日本の事情は多少違うとはいえ、弁護士がマラソンをするところを「愛」のオブラートに包んで見せられたのを思い出せば、さほど違いはないようだ。

専ら、テレビはビデオ観賞用にすればよいのであり、そう考えれば、もう以前から家庭娯楽専用へと活路を見出していたのだ。
そもそも、テレビは勝手にやっているわけで、その影響を語るならば別だが、その勝手にやっているものを「ああしろ、こおしろ」と言ってみても意味がないのだ。しかも、そこにはPR(パブリックリレーションズ)が屋台骨を支えている。もし、テレビ批判をするのであれば、先ずもってこのPRを通じて資本を膨らませようとしている企業体に矢を向けるのがコモンセンスであるべきだろう。そしてさらには、「くだらない」と言いながらも不必要な消費をまんまと煽られている視聴者自らが自嘲的であることも必要だろう。

テレビの「窓」に目をやることに飽きた連中は、ネットの「穴」でデバガメ精神を養う。その連中にゴールデンなど興味はない。
好きな時に好きなだけ覗き見出来るネットだからこそ、YouTubeもグーグルアースも成立可能なのだ。

軍事衛星風デバガメ「ブロンズタイム」の到来である。ここに喜びは無論ない...

2007/07/07

ボは亡国のボ



善意を狩ることをグッドウィル・ハンティングと呼ぼう。
あの、昔話題になった映画の題名と同じだが、無関係だ。
派遣労働からのピンハネに対して、日雇い労働からのピンハネは約4・5倍以上に上る。
単純に、日雇いの善意狩りから得られる不労アガリ(風呂上がり)は、4割5割である。
これを肥やしにグッドウィルは善意を狩りつづける。

無論、これは労働基準法に準拠したやり方であるので、彼らは飽くまでも法によって裁かれることはない。
しかし、誰が見ても「グッドウィル・ハンティング」である。つまり、足元を見ている。
どんなピンハネがこの世に跋扈しているのか、丁稚奉公でもあるまいし。

概して、今の行政制度改革というものがいかに生温いかをよく知れと言わんばかりに、官僚機構の奇行ぶりは度が過ぎている。
一層のこと、ヴォランティア組織に改組してしまう方がグッドウィリングな人たちには適っている。
公務員には釜出しの手伝いを本業にしてもらい、それに対して給与を出す。
一方、釜出しの食事に与る人たちが公務員の仕事をヴォランティアで行う。それに対してはネットカフェを無料開放する。
今の理想的な国家像がこれだと訝る人も多かろうが、しかし、そこまでこの世界は疲弊している。
公僕は亡国の謂なり

2007/07/02

日系余生



酷な話をしよう。

先ず、私は原爆体験者でもなければ、好戦論者でもない。
そして、自民党支持者でもなければ、共産・社会主義者でもなければ、さらに、民主党支持者でもない。

政党政治家というのは一個の人格であることを越えて、一つの鋳型に塡められることを甘んじる故に政党政治家と呼ばれる。
これは一介の聖職者が時流に任せて遵守すべき教義を勝手に解釈できないのと同じで、それがイヤならば政党を離脱するしかない。
そして、彼を選ぶのは国民であるが、彼が彼自身の言葉を選ぶのは国民ではない。その意味で「しょうがない」というのは勝手な話ではあるが、「しょうがない」。となると、このしょうがない政治家をどうするかはわれわれの責任である。お咎めを受けることが分かっているような発言をすること自体、そこにその理由を探す必要はあろうが、人格攻撃の意味は皆無であろう。なぜなら、彼は「しょうがない」政治家なのだから。そして、その彼をまたぞろ支援するようなことになるとすれば、これまた「しょうがない」選挙民なのであろう。となると、誰が悪いのか。人格の崩壊しつつある政治家を堰き止めようとする一部の選挙愚民か、はたまた、人格を専ら必要とせず、一部の民の愚弄さを利用する政治家か。

正直な話、私は離党する党のない身分であり、日本がこのままでありつづけるのだとすれば、日本を離れるべきなのかも知れない。日本国憲法の素晴らしいところ、それは、誰も日本を離れる者を引き留めることは出来ないことを保証していることだ。

いっそ、ペルーにでも出稼ぎに行って、政治家にでもなろうかと思う。