2007/08/24

スカラベの品性

「格調」という言葉を久々に聞いた。
中国からのニュースだ。
またかぁ...とお思いの向きもあろうが、そうではない。
陳腐な「プラスティック・サージャリィ」のお話。

今時は、品よりも品ー物(商品)を売り物にするものであることは3歳の童子でも知っている。
「あれ買って」「これ買って」と泣きつく子供はこの際どうでもよい。
「格調の低い番組」という批判というよりも、中共のオリンピック対策がらみのキャンペーンであろうか。
矢面に立ってあえなく倒れた品に欠けた番組の説明をするつもりは毛頭ない。
ただ、二、三点言おう。

モラル向上キャンペーンにせよ、”顔面粘土”手術(整形)にせよ、全て「表層」面が問題になっている。
少し前の日本のガングロにせよ、美白にせよ、「見た目が9割」にせよ、”即物的”という老人じみた言葉を使う気はない。
寧ろ、そもそもが「唯物的世界」に人間はどっぷりと浸かっているのだということ、
つまり、意識などは所詮、誰にも知られなくてよいもので、二の次三の次の代物だということだ。
「意識を持て」などなどの黴臭い精神論の古いことは確かだが、
「儲かりまっか」的商人意識を持つ気にもこれまたなれず、似而非サムライ節を吹聴して回る気にも毛頭なれない。

つまり、全ては商売ショーバイであり、生き残るためには整形することも辞さないのだ。
これはとりもなおさず、消費者層にまで降りてきた商業主義的サヴァイヴァルであり、
その時、女はマスクで男を騙し、男は金で女を騙す。至って分かりやすい昆虫の世界だ。

スターの顔は昆虫化し、そのわざと歪ませた鈴虫の声で媚びを売る。
駆け出しの少女趣味アイドルは、その媚態で高解像度のスクリーンを一面ピンク色の春にする。

この時代、太陽も転がさぬスカラベである限り、死の後も再生はない。
それはただのフンコロガシであり続けるのみだ

2007/08/23

日本荒口野朽連盟(荒野連)

「審判」は絶対的なのだそうだ。
どの世界に、絶対的な審判があるというのか。異教徒でもあるまいし。

二つの文を比べてみよう。

「審判は絶対的である」(1) 
→ 主語=審判、述語=絶対的

「絶対者は審判である」(2) 
→ 主語=絶対者、述語=審判


(2)における「審判」とは「絶対者(神)」の無限にあり得る属性の一つで、その判定の真偽に間違いはない、誤謬はあり得ないということである。この文は言い換えると、単純に「絶対者は間違わない」ということに他ならない。
それに対して、(1)における「絶対」性は「審判」という有限者の持つ限られた属性の一つに過ぎない。しかも、「審判」という言葉の定義そのものではなく、また、審判という概念から導き出される属性というわけでもない。

(1)の文はいわゆる〈総合的判断〉と呼ばれるもので、(2)の文は〈分析的判断〉という。こんなこと、私がわざわざ偉そうに言うことでもない。言いたいのは次のことだけだ。

(1)を高野連はあたかも(2)のように扱おうとしているということである。上の極端な例をキリスト教的に言えば、もはや「冒涜」なのである。高野連というのは、その多くの理事を大新聞社社長が務めている。言語道断とはこのことであり、その素振りや中世の宗教裁判にも劣らない。これが分からぬのであれば、今すぐ荒野をさまよえばよいのだ。

Some like it CUT.


日本人は、切られるのがお好き。
だから、切られないと、自分で自分を切る。
正直、現代日本人がサムライ魂という時、両眉の周辺の筋肉が引きつれを起こす。

昨日、またマスコミに小指が届いた。
ご存知の通り、靖国がらみだ。暴挙とまでは言わないが、大概、こういうのを聞くとイヤ気がする。
仲良し公安にでも教えてもらったのか、はたまた、伝統芸なのか。
まあ、どうでもいいが、手にはあと29関節も残っているので、問題なかろう。

これは冗談に過ぎないが、もしかして、指切り芸が達者な連中の指先は爬虫類ほどの再生力があるのかも知れない。
牢屋に入ってからの更正力はなくても、恐らくいくら切っても生えてくるに違いない。

僕にはせいぜい、湯上がりの爪を切って抗議するくらいしかできない。
でも、こちらの方が長続きする。爪だって、元々は指の細胞なのだし。

最後に。
「ラストサムライ」を見て、これのどこが感動する映画なのかと思った。
コメディとして取るなら別だが、あれではほとんどキホーテの世界である。
あれなど、諜報機関の外国人に煽動された顛末を追ったものに過ぎず、どっかで誰かが嘘をついている気がした。
でも、仕方ないか --- Some lie(さむらい).

P.S.: 「お熱いのがお好き」を思い出した。主人公のジャック・レモンがどさくさ紛れに女に変装し、そこで素性を明かさずマリリン・モンローを騙し続けるうちに、彼女に恋するという話。変装と攻略、男と女、外国人とサムライ---記号が違うだけで、モチーフは同じことに気付く。

2007/08/22

アニヤ・ヒドンマーケット


アニヤ・ハインドマーチのエコバッグ完売。私の大好きなエコな話題である。

いつこのバッグが完売になったかなどは知らない。
しかし、日本の代理店のホームページでは「完売」とあった。
エコな時代である。

そもそも、原発がダメだというプロパガンダ以降、図らずも(?)エコ・マーケットは膨張の一途を辿っている。
反原発論者の極論に「どうせ電力消費の大半は東京なんだから、都心のど真ん中に炉心でも何でももっていけばいい」というのがある。
そして、都会人はエコに疎い、だのといった議論になりがちである。農村はそもそもエコなのだと。
しかし、である。東京の人口は、恐らく今では、そのほとんどが田舎者で占められているはずだ。
ドーナツ化の話をしなくても、東京近郊から来る人間の方が、公共サービスをより頻繁に享受していることになる。
どれほど田舎者にエコ意識の高さが見られるかは疑問が残るというもので、一昔前の生活サイクルの話と今のエコの話を混同してはまずい。

昔の農民はエコを相手にしているのであっても、それを儲けにはつなげなかった。
今やエコとはマーケット商品であり、これで商人は財を築くのである。
そこで崇高な理念が掲げられていようとも、それは商人的理念に過ぎず、競争相手も含めた誰もが幸せになるという題目はあり得ない。
エコバッグも然り。

さっそく、プチブルを相手に小銭を稼ごうという人間がオークションという魚河岸でこのエコバッグをさばいている。
9000円程度の値が付いていたが、果たしてあんなロゴの入ったただの鞄を誰が買うのだろうか。

"I'm not a plastic bag."

自然を散々搾取してからに、そのあとはまるで人ごとのように「エコ」である。
その最たる者が自動車メーカーだが、こんな車は売れんだろうなぁ。

I'm not a plastic car, but just drink petronium.

2007/08/20

安全を食わば毒まで


Free China, or China free?

食品安全という見地からか、最近よくテレビでは中国製品を家庭から一掃するとどうなるか、つまり、生きていけるのかという実験をしている。単純な疑問だが、これを中国本国でやってみたらどうなるのか。
無論、生きていけないだろう。
なぜなら、China freeなどは彼らにはあり得ないことだからだ。

ただ、Free Chinaはどうだろうか。つまり、彼ら中国人を低賃金で働かしている外国企業、そしてそれと結託している中国官僚機構から解放するとどうなるか。
これも生きていけないことに変わりはない。

したがって、最初の問い、Free China, or China free?とは、愚問であり、非現実的な問いだということになる。

戦後経ってからのの日本製品もやはり同じく、安物のすぐ壊れるB級品と言われていたわけだが、海外で物を作れなければ、日本人は恐らく不当に高額なものを買わされていたことだろう。中国サマサマなのに、まるで人ごとのような報道が多い。

Made in Occupying Japan

2007/08/14

L'autre bout du monde virtuel N2「自由の館へ」ようこそ


                        緑=自由/黄=そこそこ自由/藍=不自由

L'autre bout du monde virtuel N2

非政府系非営利団体にも色々と毛色がある。

例えば、旧ソ連地域の、しかも地政学的戦略拠点と言える地域で活動するアメリカ系団体「自由の家」。
1941年にルーズベルトの肝いりで創設された非営利シンクタンクだが、その主な支援元は合衆国政府。
したがって、その外交政策には親近性が極めて高い。
その幹事を務めるピーター・アッカーマンはスティーヴ・ヨーク監督の「Bringing down a dictator」の制作にも手を貸しているが、
このドキュメンタリーは各国の学生運動家に見せるためのプロパガンダ用に現在も使用されている政治映画(この模様はフランス人ジャーナリスト、マノン・ロワゾManon Loizeauのドキュメンタリーで確認できる)。

ちなみに、歴とした反ナチ・反共団体でありながら、民族分離の巨壁を立てるイスラエルに対するその年次評定は「ランク1」(=自由な国)。このような怪しい資料が議会などで利用されるのを見て、非政府・非営利という言葉に違和感のない者は恐らくいないだろう。

そのミッションは次のように宣言されている:
「「フリーダム・ハウス」とは、世界における自由の拡大を支援する独立系非政府団体である。自由が可能であるのは唯一、政府がその自国民に対して責任を負う民主的政治システムにおいて、法の支配が広く行き渡り、表現・連帯・信仰の自由、さらにはマイノリティや女性の権利が保障される場合においてである。
自由は最終的に、率先して事に当たる勇敢な男性・女性の行動にかかっている。われわれは非暴力的な市民のイニシアティヴを、自由が否定されていたり、あるいは脅威にさらされている社会において支援し、すべての人々が自由である権利を脅かそうとする思想や勢力に反対する。フリーダム・ハウスは、分析・擁護・さらには行動することを通じた自由・民主主義・法の支配のための触媒として機能するところのものである。」("Mission statement")


http://www.freedomhouse.org/template.cfm?page=1

2007/08/11

プリゴフに関する誤報

共同通信社が伝えたプリゴフの死に関する誤報。

前衛パフォーマーで詩人でもあったプリゴフが先日亡くなった。
1940年生まれの彼は来日もしたことのある人物で、本国では教え子もいる。
ただ、その彼の評判を鵜呑みにするのは、あちらの事情に疎いか、贔屓目であるからだろうか。

パフォーマンス、ハプニングというものにとって、個人の死は最大のパフォーマンス、
つまり、それが本来創作し得ないものであるが故の絶頂であるとさえ私は思っている。
共同通信は何故か、その絶頂について述べてもいなければ、誤って彼が「10日前から入院していた」
(そしてそこで死亡した)と報じているが、この記事は裏を取っていない。
彼は一人で何もせずに病院で亡くなったのではない。
教え子たちのグループ「戦争」と共にその日は、ヴェルナツキー通りにあるモスクワ大学大学寮の22階までタンスの中に入ったまま
昇り、そこで猥雑詩を絶叫するパフォーマンスが行われるはずであった。
しかし、その22階に上がっている最中、タンスの中で持病の発作が起こったのである。

パフォーマーにとってはこの最期が報じられないのは、遺憾であったに違いない。

ちなみに、彼の葬儀費用に4000ドルを集めるチャリティをアントン・ノーシクがブログサイト「ライヴ・ジャーナル」で始めたのだが、これが一種のスキャンダルになっている。このチャリティ自体がではなく、これを不可解なキャンペーン(彼にはロンドンに地所があること、その彼に4000ドルなどは端金だろうということ、そもそもそんな人間に葬儀代を集めるのは寧ろ非礼であるということ)だと取り上げた作家ガルコフスキーが、あるウェブ出版所との契約を突如打ち切られ、それが大きな波紋を広げていることだ。

しかし、これこそがプリゴフ最後のパフォーマンスだったのだと考えれば理解しやすいのだが、生真面目な連中は亡くなった彼の死を悼むことにマジメ過ぎて、プリゴフが誰だったのかを見失っている。

詩人は人間か、作品か。
少なくとも、ただの人間であるとは言い切れない。

2007/08/08

"L'autre bout du monde virtuel" N1


新シリーズ" L'autre bout du monde virtuel"

この世の中には一見しただけではその本体のよく分からぬ「キメラ」的事物が多く存在している。
そのことはネット世界にも反映される。

社団法人 機動隊員等を励ます会
http://www.hagemashi.com/index.html

法人化する意味がどこにあるかは皆さんに考えてもらいたい。
単なる後援会としての存在意義云々ではなく、社団としての法人格を社会に認めてもらう必要がどこにあるのかということを。

Always look on the bright side of death



数年前に「パッション」が世界上映された時は、この「ライフ・オブ・ブライアン」が世界各地で再上映された。
「奇跡の丘」や「パッション」を見てから「LOB」を見る人には、ただの聖書もののパロディにしか見えないだろうが、さにあらず。
再上映の経緯は、冒涜的だということから当時DVD化されていなかったということもあるが、この映画をPythonsはマジに作っていたことが一番重要。

「コメディからは何も新しいものは得られない」とジョン・クリーズが最近語っていた。しかし、われわれが彼らの作るものから得るものは少なくない。少なくとも、彼が「日常を笑っても新しみもなにもない」、つまり「新たな発見に乏しい」というとき、それならば、生全体を笑いの坩堝に叩き入れることで、生の淵を垣間見てやろうという意志を持ち続ける必要があるのだろう、と私は感じる。

だから、鬱になっている暇はない。関係ないわけではないが、朝青龍よ、君は笑えないな。

Always look on the bright side of life

words and music by Eric Idle

Some things in life are bad
They can really make you mad
Other things just make you swear and curse.
When you're chewing on life's gristle
Don't grumble, give a whistle
And this'll help things turn out for the best...

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

If life seems jolly rotten
There's something you've forgotten
And that's to laugh and smile and dance and sing.
When you're feeling in the dumps
Don't be silly chumps
Just purse your lips and whistle - that's the thing.

And...always look on the bright side of life...
Always look on the light side of life...

For life is quite absurd
And death's the final word
You must always face the curtain with a bow.
Forget about your sin - give the audience a grin
Enjoy it - it's your last chance anyhow.

So always look on the bright side of death
Just before you draw your terminal breath

Life's a piece of shit
When you look at it
Life's a laugh and death's a joke, it's true.
You'll see it's all a show
Keep 'em laughing as you go
Just remember that the last laugh is on you.

And always look on the bright side of life...
Always look on the right side of life...
(Come on guys, cheer up!)
Always look on the bright side of life...
Always look on the bright side of life...
(Worse things happen at sea, you know.)
Always look on the bright side of life...
(I mean - what have you got to lose?)
(You know, you come from nothing - you're going back to nothing.
What have you lost? Nothing!)
Always look on the right side of life...

2007/08/05

押し問答とは公案にあらずして、公安の謂なり。Aum...



Jay, Guru, Deva,...Aum.
Nothing is gonna change my world.
職務質問は「任意」であるゆえ、何ら警察権力による拘束力も発動されない。
したがって、もしもこれを妄りに振り回す公安を前にした時には、
その姓名を尋ねた上に、職務権限を逸脱している旨を知らしめることわれわれの救われる道なり。
南無。