2007/06/28

法ホウほう




ビリー隊長が偽善者であることは誰も否定できないはずだ。
なぜなら、もし自分が本当に良いと思うものならば、それを無償で人に分けようとするのが善人の筋だからだ。
だから、偽善者なのだ。しかし、彼が「悪人」といっているわけではない。そこは間違ってはいけない。
善人と偽善者の違いは分かるが、悪人と偽善者は混同されやすい。

偽善者は世に五万といる。例えば政治家たちだ。だが、彼らを悪人と切り捨てることは出来ない。
なぜなら、候補者という名目で選ばれた連中であり、われわれ選挙民は自らの善意を彼らに引きずらせているからだ。
では、本当の悪人とは誰のことか。

例えば、法の裁きの下で有罪になる者などは悪人だろう。しかし、冤罪の確定される前の人についてはその限りではない。
この三日間行われてきた光市母子殺害事件の裁判における弁護人をその政治的活動への傾倒を理由に断罪する声があるが、立法の現場における被告側弁護士による政治活動をもってその根拠としている評論家連中、さらにはそれに煽られるマスコミの挙動が見られるが、立法の現場で政治的活動が見られたことがないと考えることほど、その立法に対する稚拙な態度はない。
立法に政治がかかわらないとする根拠は、おそらくは三権分立の原則であろう。

しかし、そのような原則が政治という超越的だからこそ生臭い”生物”を前に、果たして機能すると考えることはどれほどわれわれの救いになるのか。死刑を許す許さぬの問題は別である。しかし、仏教徒の法務大臣がその座に鎮座しているあいだにどれほどの死刑執行がなされたか。ほとんど皆無に等しい。ということは、そこに政治がすでに介在しているということである。

つまり、法律を超然たるものとみなすことは許されないし、許してはいけない。ということは、そこに政治が非政治的な装いで常に自らのレパートリーを演じるのが常なのだ。したがって、そのような現場においては政治的な手段をもって闘わねばならない。さもないと、立法の仮面の政治がその自らの姿全てを立法化するだろう。政治は立法となろう。立法に頼れない現場で、立法に対して法で対抗するのは自らの無効力を晒すことにしかならない。よって、裁判法廷中での政治運動を許し、自らもその中で政治化することこそが最短距離であろう。弁護士側への人格攻撃など無用なのだ。法に人格など知りようがないのだから。