2008/06/13

鼻風船


「モンスター」という言葉について。

今日は先ず最初に、次のことを確認しておこう。
英語などの外来語を流用して、発話しようとする言葉の本来もつ力や勢いを和らげるという発想が日本語に存在することは恐らく間違いない、といってよいだろう。当てずっぽうではなく、これは言葉の問題である以上、思考の問題でもあるからだ。もっとも、日本語「的」発想が問題なのではなく、日本語の発想が問題なのであり、日本語でモノを考える日本人の固有の問題である。

さて、本題である「モンスター」という言葉である。

この言葉に「ペアレンツ」をつけて使用する連中は、このペアレンツを「化け物」と呼ぶことで、彼らを鬼に成り下がって深山に隠れていたはずの元人間、つまりは、本来はまともな人間=社会人たちとは一定の条件がない限り交渉してはならないはずの、出来損ないだとみなしている。

だが問題は、これを「社会問題」とまで呼んでしまったということにある。というのも、この親たちの世代を暗に出来損ないを多く含む、反社会性の強い世代だと言っていることにある。世代論というのは眉唾でもって聞いておく必要がある。というのも、世代は常にその上下に連動しているからこそ世代と呼ばれるのであり、何も特定の一世代がボウフラのように降って沸いてきたわけではないからだ。その縮図が亀田親子であろうが、これには悲壮感すら漂っている。ただ、次世代に教える教師には正面と反面の両面あるということは確認しておく必要があるし、トラディションという意味で、親も教師も同じ。そこに差異は断じてない。

世代は基本的に酒の醸造と同じ作り方でこの世に現れる。布団を醸造所に持ち込んで寝ずの番をする杜氏と同じようにして、本来は新しいものはこの世に生を受ける。それが、現代はそれに費やす時間を惜しむ。怪物=親はその結果にすぎない。

今の小学生の親は20代後半から30代にかけての連中であるが、ということは、生まれは昭和70年代後半から80年代の連中である。その連中の親は恐らくほとんどが戦後生まれの連中である。連中が大学に行っていたとしたら、その時期はバブル期の前後に丁度当たる。この時期に一番良い思いをしていたのは彼ら自身ではなく、その上に乗っかっていた連中、言うならば、今ここぞとばかりにバッシングしている連中、そのバブルの恩恵を受けていた奴である。それが「社会問題」とほざく。ほお、面白いではないか。

要するに、社会問題化していたはずのバブルを問題とも感じていない連中が色々と記事を書いているのである。社会道徳からのドロップアウトよりも、奴らの倫理的ドロップアウトを糾弾しないことこそが社会問題であろうに。

ここで一句

鼻風船 床すれすれに 垂れ下げて
鬼か 阿国か 夢醒めやらず