2009/12/11

聖毒書習慣


読書家にとっての至高とはなにか

明らかに、知の欲求を満たすことではない。知によって崇高・至高の瞬間は得られない(獲得された知はそれ以外の無限に広がる無知をわれわれの目の前に曝すから)。多分、最初の問いそのものが愚問であることに気付きながらもさらに考えをめぐらしてみる。
あるいは、むしろこの広大無辺の無知の領域こそが未だ見ない至高の影であるとでも考えてしまうのか。読書家とは何と愚かなことか。
しかし、読書を止められない者こそは、この至高の影を追い求めるのだろう。私もその一人なのだろうが、しかし、音楽に手を出せば手っ取り早く崇高なる瞬間を得られるかと言えばそうとも言えない。知も無知もない領域に行きたければ、初めから読書などする必要はないのだが、無知のままでいることの不安が読書家にはどうもあるのだろう、すぐには宗教に手を出すことはしない。タバコは吸っても、コカインにはすぐに手を出さないのと似ている。要は、読書家は無我などというものとは無縁なのだ。これは、自らの思考にシドロモドロであることに何とも不可解な(不)快感を見出しているからかもしれない。不快であることが無我でいないことを助けてくれる、あるいは少なくとも、自分を無くすことが最大の不快であるならば、寸止めの不快感こそが快感であると自らを偽っているのだろうか。いずれにしても、最初の問いは愚問である。なぜこんなことから書き始めてしまったのか...

...こんなことを書き始めた理由はこうである。どれほど本を読んでも、私には感動という瞬間が生じず、その理由を知りたくなったからだ。そして、その理由が分かったところで結局は何も変わらないにもかかわらず、それでも理由さえ分かれば読書の仕方を変える方法があるのではないかと考えたからだ。

そもそも、私にとっての「読む」とは、「書くための読む」である。しかし、書いていない。というか、書けない。
ライターズ・ブロックというのがあるが、別に物書きでもない自分をライターと呼んでいるわけではなくて、ここでこの言葉を出したのは書こうとしている人間が書けない状態を指すために過ぎない。
唐突な話だが、真言でも聖なるヘブライ語でもいいが、聖なる言葉への信仰は次のようなことを教えてくれる。つまり、この世は言葉で出来ているということ、ひいてはわれわれ人間も言葉であるという考えだ。とりわけヘブライの思想を例にとれば、その聖なる言葉を分有しているのがわれわれの身体であるという。分有しているといってもそれは車のガソリンのようなもので、使い切ったらハイそれまでよ、という代物。つまり、人間絵巻一巻の終わりというやつである。これは物書きの世界に置き換えると非常に分かりやすいし、ある程度納得出来る。あるいは、物書きでなくとも、才能全般という言葉に置き換えてみてもよい。しかし、このヘブライの神霊言語思想における「分有」というのが「予算割当」のようなものである以上は、「補充」だとか「補正予算」なんて考えは恐らく出て来ない。

「今年度分の科研費は全部使い切って下さい、来年への繰り越しはありませんから」まあ、こんな調子だ。

今生も恐らくそうなっている。知識の集積は後生を益するとしても、来生への繰り越しは許されないのだ。そして、マッドな奴らはもっと違う手を考える。人間の死後再生技術が完成することを前提とした脳の保存を怪しげな会社に委託するか、脳をデータ化する。そして、来生への繰り越しを試みる。ここでは熱力学の第一法則と第二法則がかち合わないことが前提なのだが...。

そう考えてみると、読書は至高性を忌避する行為であることになるのだろうか。必ずしもそうではない。むしろ、書くことの方が第二法則への虚しき抵抗なのであって、読書はその抵抗を見守る行為であると同時に、一つの閉鎖系として生じる書物を再び開放しようとする裏切りにも見える。そうなれば、至高性を目指していることになるのだろうか。多分、その答えはは「イエス」でもあり「ノー」でもあるだろう。

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