2009/06/11

Dysentary OR Commentary

今日は「コメント」について考える。予め申し上げれば、楽しい考察ではない。

コメントはコメンタリーと基本語義は同じなのだろうから、commentaryというのが元の語だ、きっと。
少し気になるので辞書を開いて確認してみた。
ラテン語のcommentarius「注、注解、解説」のような意味だ。
つまりは、テクストという言語化された思考に対して付加されていく言葉、てなほどの意味ってこと。

文化のある世界には日々コメントが数多く生み出されていく。今、ここで起こっているようなことだ。
文化こそは自らにコメントを加えていく装置である。
文学研究然り、精神分析然り、すべて他者の言語をめぐるコメントであって、まさにそうすることによってコメンテーターは自己に気付き、失望し、落胆する。それに終わりはなく、またしたがって、あまり気持ちいいものでもなければ、必ずしも精神的に健全なものではない。ただ、それを端で見ている人間にとっては豊かな財産となるものでもある。

コメントのあるところには文化がある。動物に文化があるという霊長類学者はいるだろうが、それとは大分違う。
善し悪しに関係なく、コメントは文化を目指し、そしてすでに耕された土地をまた再び改良しようとする。ただし、改良というのは言葉の上での話で、実際には改悪されることも十分あり得る。その理由は後述する。

インターネットは文明の発明であって、上に行った意味では何ら文化的産物ではない。
コメントを保存したりすることは出来ても、また、インターネットが文化の形を変化させることがあっても、文化を創ることはない。
語弊があろうとも、そうなのである。インターネット文化といってみても、それはインターネットが文化の代替であることを意味しないのと同時に、最後まで媒体であり続ける。なぜなら、インターネットは単純に、コメントなどを必要としていないからだ。そんなものがなくても存在することが出来るからだ。

文化は死を目指す、というか、死に根ざしたところがある。
いかに逆説的であろうとも、情報の保存という営みは、裏を返せば、それが死と隣り合わせであるから生じる挙動だということを証明している。文化主義者というのが一体何かということを考えると、生がこの死と隣接したものに過ぎないということを知っていても黙っていることにあるのだろう。改悪された文化とは、生に偏向したコメントしか生み出さない文化のことである。それは、自らの言葉がすでに他人の言葉であることを知らないコメントであり、言葉が鏡面であることを知らない人間がそれを生み出す。そこに豊かさは生まれず、貧しさばかりが増殖していく。個人の言葉はいずれ朽ちていく。場合によっては瞬間的に消えていく。その代償は様々であるが、いずれは消え失せるのである。そこまで辿り着くことを知っていながらそれに思い至らない言葉たちは、しっぺ返しを食らい、未来の肥料となることすらなく蒸発していく。

生と死の両価的な現象として文化。日々、衆生的コメンテーターの言葉に一切の感慨を覚えないのは、彼らの目には死が映っていないことが理由かもしれない。文化がなければ、死は悲しいことではなく、生も喜ばしいことではない。死をあるいは生を悲しくも喜ばしくもしているのは、装置としての文化が機能している限りのこと、つまり、死の悲哀や生の歓喜を再生産しているからなのだ。