2009/06/18

盲眼鏡

職業としての翻訳を離れてから随分時間が経った。といっても、本当は何年ものあいだ遅々として進まぬ翻訳の仕事があるのだから、翻訳から離れたとは言い切れないし、言ってもいけない。

とりあえず、翻訳について先日こんなことがあったので紹介してみたい。

知人の日本文学研究者と談笑していた際、あるロシアの詩人の話になった。偶然にも、これについては以前僕自身も学士論文でイッチョカミしていたものだった。通常、この手の話になると水を得たように話し始めるのが人間の性なのだろうが、今の自分にはそれが出来なくなっていた。興味を失ったからというのではなく、当時何をどう考えていたのかがよく分からなくなっていたからだ。覚えていたことといえば、その作家にして詩人の作品の翻訳出版が当時待たれていて、最初に見つけたと思っていた僕は先を越されたという気持ちで一杯になっていたということくらいだった。だが、本音は、まともな翻訳なぞ出来っこないという単なる僻み、嫉みだった。

前世紀(おお!)の20〜30年代の作家・詩人というのは、先ず間違いなく言葉への信頼を失っている。まただからこそ、言葉を復活させよう(というか、退廃を押し止めよう)という信念に燃えていた時代であり、今から見れば作家の自惚れだとさえ映るほど言語の過剰な時代であった(これは今も続いている。世界の崩壊、というか、日常的秩序の崩壊が直接的に言語の崩壊ですらある時代にわれわれは今なお留まり続けており、戦争はなくとも言葉さえあれば人を殺し得る現場を、例えば「イジメ」というニュース用語によって、日常として受け入れている)。

話を戻すが、ここで問題の作家というのはダニイル・ハルムス(Даниил Хармс)という。ダニイル・ダンダンなどのペンネームもあった。失念したが、他にも複数の名前を持つ物書きであった。その彼が37年に粛清されたのち、彼の草稿が入った鞄をヤーコフ・ドルースキン(Яков Друскин)という音楽学者・哲学者がレニングラード包囲の焼け跡から救い出す。確か1989年だったと思う、ハルムスの作品集が初めて一冊の本として纏められ、一躍ソヴィエト末期のロシアにおいてブームとなる。まあ、ブームと言っても、今の春樹フィーヴァーと比較してはならない。再版を繰り返すことは余程のことがないかぎり先ずないロシアの文芸界でのブームに過ぎないから、初版が売り切れになっただけども、すでにブームなのだ。この本を僕は最初、14歳年上の友人から紹介され(貰ったわけではなかった。その代わり、誕生日にザボロツキーの詩集を貰った)、すっかり虜になったことから、絶版状態のその本を何とか探し出そうとレニングラード中を駆け回った。そして、ネフスキー大通りと交差するリテェイナヤ通りに見つけた古本屋で、ウィンドウショッピング用に飾られた初版本を探し当てたのである。

当時、レニングラードにいたのは遊学中だったからだが、この本のお陰でというか、この本のせいで、大学をサボるようになる。否、全く行かなくなってしまった。殆どの時間を上述の友人の家で過ごし、夜は彼と一緒になって川端の「掌の小説」の訳を色々捻り出して過ごした。ユダヤ人である彼の書斎にはニーチェの肖像画があって、書斎のベッドに寝かせてもらう僕は、プロフィールの肖像画だから目が合うことなどないのに、いつも目が合わないように肖像画に背を向けて寝ていた(セリョージャ、君もすっかりオジさんになっていたっけな、離婚するとは思わなかった。酔っぱらって僕が反吐を吐いてしまった君のオフィスに腰掛けていたレーナはそんなこと噫にもしなかったじゃないか。その代わり、君の最初の嫁さんとの子供がファッションモデルをしているという話は、今まで僕にしたことのなかった君の子供の話だった。君んちの台所にあった子供用のお皿について尋ねられなかったことをすぐに思い出したよ、20年近くも前のことだというのに)。あまりに長く居着いていたものだから、仕舞いには自分でスケッチしたナボコフの肖像画を枕辺に貼ったほどだった。なかなかの出来ではあったが、いつも通り、筆致にパンチがない。

ハルムスの話だった。というより、翻訳の話をしたかったのだが、いつも脱線ばかりしている。

翻訳に決定稿はあり得ない。

七十人訳聖書(正式には72人だったと思う)という古代ギリシャ語翻訳が同じ時間に終了し、その結果も全く同じであったという奇跡が語られるが、それは奇跡ということなので、われわれが話すレベルとは違う。しかし、比較の上では神の言葉ゆえの一致があるのだとすれば、凡般の翻訳者もこの奇跡を常に求めているはずなのである。間違いだらけの旧訳を新訳に変えるという時も、皆勇ましくあるのはこの奇跡に近づくべく努力するからだ。しかし、だ。それは適わない。

僕自身、コンピューターにデータを預け切るような懶惰によるのだろう、何度も同じテクストを繰り返し翻訳するというミスを犯している。その度にこれは決定稿だと思っているが、気がつくと、すでに翻訳したものをもう一度翻訳しているなんてことがあるのだ。翻訳の話以前の話だが、実際に何度もやっている。問題はしかし、その翻訳がどういうレベルなのかということだ。質に関しては言わない。ただ、その両者を惹き比べてみて、どう見ても見劣りするものがやはりあるということ、つまり、いつも同じような質を保てるわけではないということである。そこから引き出される経験値とは、単純に言えば、文章は体調が支配しているということ、文体も語調もリズムも、すべて身体に振り回されているということである。知のレベルよりも、身体のレベルが大きく訳の善し悪しを決定してしまうという現実を知ることが大事なのである。決定稿は翻訳にはなく、しかるに、決定版という名のつく翻訳は皆嘘をついている。何の権限もなくそう言っているに過ぎないのであり、そんなものは最初から疑ってかかるべきであり、またなおかつ、新しいからといって良いというわけでは少しもないということである。

翻訳の話をここまでしてきたが、これには読書のレベルも加えねばならないから、さらに話は錯綜する。読む状態、年齢によってもその受容は異なる。受容理論という文学理論が世にはあるが、それが解釈論の範疇に入るものであるゆえに、錯綜を激化させる。読みの質も問題になるとなれば、安定した読みなどどこにもないということだ。翻訳であろうが原典であろうが、読むという営みは最終的に理論化出来ないことを理論化したとしか言い様がない。


こう思うのである。

つまり、文字化している時点でもこの質の高低、ぶれ、善し悪しはあるのではないか、と。受容理論をいう前に、わたしはこの部分を問題にしたい。言語化している時点を。ニュークリティックの「意図を深読みするな」という禁止は読みの誤謬(fallacy)を減らそうとするものであったことは確かである。しかし、書き手が全て正しいものを書いていると誰がいえるのか。書き直したいと思っている作家は五万といようもの。公にしたらもうそれが正しいのですよ、といってしまうのはあまりにも酷であるし、言語の根源的状況をやはり見誤っているとしか思えない。言語は正しく語れないし、語るということは正しく語ることをいつも意味しない。語るは騙るという地口をオヤジギャグだと呼ばれても結構、しかし、言葉は言葉であるからといって、それ自信免罪符であるわけではないのである。言葉とは、いつも狙いを定めているかのような素振りを見せながら、実は照準器に望み込む目は光を失っているのである。現実に出てきたとき、つまり、現実化したときそれは目開きのように振る舞うが、まるでイースター島のモアイの様に、居眠りをしている男の目蓋に白墨を塗り込んだだけなのだ! 

言葉よ、おお、わが盲眼鏡よ!