2010/01/10

AD INFINITUM


セレブという言葉が使われるようになって何年経つのであろうか。
私はこう言う俗な言葉の氾濫が好きでたまらない、なぜなら、その俗っぽさを嗤うのが私の唯一の趣味だからである。
このように「人間性」が壊れている私にとってはそれゆえ、セレブと呼ばれるような人間などこの世にはいない。
あるいは、全く信じないといった方が正確であろうか。

セレブというのは、ミーちゃんハーちゃんにとっての聖人であり、一方聖人は、篤信家にとってのセレブである。
セレブ=聖人のどちらにもなろうとすると失敗するのが落ちであり、オウム事件の時点で麻原は僕の「セレブ」ではなくなった。
財界人に確たるセレブ風を吹かせている中村天風のようなヨガ行者まがいも、それなりに彼らなりの聖人と呼べなくもないが、僕にはどうも胡散臭いセレブに過ぎない(否、胡散臭いからこそセレブなのかもしれないが、このさいどちらでも構いやしない)。

しかし、この胡散臭さはいつ滲み出始めるものなのか。
「カラマーゾフ兄弟」を思い出す。聖人としての誉れ高きゾシマの遺体は腐ることなくそのまま聖遺として残されるはずであったが、それも自然の力には勝てず、周りの人間の意思に反して腐って行くエピソードがあったはずだ。こういう「ゾシマ」の話は民衆のあいだではいつまでも絶えることがないようだが、心の中にこういった聖人がいれば、心はささくれ立つこともないというのであろうか。しかし、それはあり得ない。民の自己暗示力がどれほど持続するかが、その崇拝対象である人間の「セレブ聖人」たる所以を保証してくれるだけだということは今更言うまでもない。しからば、その「セレブ聖人」という虚像を作り上げている世間も世間だ。そして、この茶番の主役はメディアである。

メディアはあいだに割り込み、あいだを作る、その善し悪しはさておき...と言いたいところだが、メディアの前提が「善」というイデアであるとすれば(これは甚だ疑問が残る)、あいだは本来満たされなければならないはずだ。しかし、この溝が埋まることがない。この世に「あいだ」が出来ると言うのは理の当然だとしても、そのあいだをあいだとして残し続けるのがその証しであるかの如くメディアは存在を続ける。そしてそれはad infinitumに膨張することを余儀なくされる。

仮に、セレブ的あの世と腐敗するこの世とのあいだが充たされているという錯覚を生み出す作為がメディアのイデアであるとすれば、誰のお世話にならずとも生きていける世などないことは言うまでもなく、またこの世は今「ほぼすべて」メディアのイデアに汚染されていると言ってしまってもよい。本来、誰の世話にもならず、誰に迷惑もかけずにいることが「善きこと」であり、つまり、プラトン的な意味での自己充足こそが「善」の本来の意味であることを忘れなければ、メディアの興隆はなかったはずだからだ。「壁」だとか「品格」だとかいった言葉に踊らされることもなかったはずだからだ。

こう言いながら、私もこのようにあいだに割り込んでいる。媒体に乗らなければこのようなことは起こりえないことで、しかし、この媒体もなければ反論も差し出しようがない。ただ問題は、そこに暗示を忍ばせるかどうかにある。あるいは、誘導と言ってもいい。マーケティングは暗示と誘導というこの二つの武器がなければ箸にも棒にもかからない無用の長物であるしかなく、これを武器に出来るからこそパブリックリレーションズが成り立つというわけだが、それならばメディアなどはただの商品購買力を喚起するための先兵に過ぎないことになろう。ニュースリリースにぶら下がる広告をすべて振り落としたところで、恐らくこの事実は動かない。

ならば、私はこの自己広告を振り落とした瞬間に無になれるのか。これも甚だ疑問である。となると、純粋に書くということは、無になるということからは甚だ隔たった行為だということになりそうだ。

私と世間との「あいだ」も、やはりad infinitumに膨張する。